聖書を開こう

三度の否認と、忘れられないまなざし(マタイによる福音書26:69-75)

放送日
2026年6月25日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:三度の否認と、忘れられないまなざし(マタイによる福音書26:69-75)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 後になってどれほど悔やんでも悔やみきれない、そんな苦い経験をしたことはありませんか。

 「あの時、なぜあんなことを言ってしまったのだろう」「本当はこうするべきだったのに、できなかった」。そんな後悔は、誰の人生にもあるものです。時間がたっても忘れられず、思い出すたびに胸が痛むことがあります。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所には、そのような忘れられない失敗を経験した一人の人物が登場します。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章69節~75節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 この出来事の少し前、イエスは弟子たちと最後の食事を共にされました。その席でイエスは、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と告げられました。しかしペトロは強く反論します。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と。そしてイエスが、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とお語りになるのに対して、「たとえ、御一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い切ってしまいます。

 ペトロは本気だったでしょう。イエスを心から愛していました。主イエスのためなら、命を捨てて最後まで従うつもりでいました。

 しかし、その夜、事態は急変します。イエスは逮捕され、裁判にかけられます。弟子たちは恐ろしさのあまり逃げ去りました。

 ただ、ペトロだけは違いました。ペトロは遠くからイエスの後を追い、大祭司の屋敷の中庭までやって来ます。人々の輪に混じりながら、裁判の成り行きをハラハラしながら見守ります。

 そこへ一人の女中が近寄って来て、みんなの前でペトロに言いました。

 「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。」

 するとペトロは、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と否定します。

 これが最初の否認でした。

 ペトロは、主イエスが逮捕される時には、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかるほど、血気盛んな勇気を持っていました。しかし、今、人々の冷ややかな視線の中で、「わたしはあの人の弟子です」と認める勇気は、ペトロには残っていませんでした。

 ペトロはいたたまれなくなり、場所を変えようと門口の方へ移動しました。しかしそこでも別の女中がペトロを見て、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言いました。一度嘘をついてしまったペトロは、もう引き返せなくなっていました。二度目は誓ってそれを否定します。神の名をかけて誓いながら、「そんな人は知らない」と強く否認してしまいます。

 最初の否認は、ほんの小さな「ごまかし」だったのかもしれません。しかし、一度心の中に滑り込んだ「恐れ」は、次の嘘を生み、さらに大きくて深い嘘へと人間を突き動かしていきます。

 さらにしばらくして、周囲の人々も「確かにお前はあの仲間だ」と言い始めました。ガリラヤ訛りのペトロの言葉は隠しようがありません。するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と言い張ります。

 三度目の否認です。

 その瞬間、鶏が鳴きました。

 ペトロはイエスの言葉を思い出します。

 「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」

 そして彼は外に出て、激しく泣きました。

 ここで私たちはペトロを責めることはできません。なぜなら、この物語は私たち自身の姿を映し出しているからです。

 私たちもまた、信仰を持っていると言いながら、人の目を気にすることがあります。神に従うよりも、自分を守ることを優先してしまうことがあります。本当は正しいと分かっていても、それを口にできないことがあります。

 ペトロだけが弱かったのではありません。ペトロはむしろ勇敢な弟子でした。しかし、そのペトロでさえ恐れの前に崩れました。

 人間の決意や熱心さには限界があります。自分は大丈夫だと思っていても、試練の中で初めて自分の弱さを知ることがあります。けれども、この物語の中心はペトロの失敗ではありません。もっと大切なことがあります。

 それは、イエスがあらかじめペトロの失敗をご存じだったということです。

 イエスはペトロの弱さを見抜いておられました。しかし、それでもペトロを弟子として愛し抜かれました。

 ルカによる福音書は、この場面について興味深いことを記しています。鶏が鳴いた時、主イエスは振り向いてペトロをご覧になったというのです。

 そのまなざしを想像してみてください。

 それは、「だから言ったではないか」と責める目だったでしょうか。そうではありません。

 ペトロはそのまなざしによって絶望したのではなく、涙を流しながら神のもとへ立ち返りました。

 主のまなざしは、罪を暴くためだけではなく、罪人を回復するためのまなざしでした。

 後にペトロは復活の主に再び出会います。そして赦しを受け、新しい使命を与えられました。かつて主を知らないと言った弟子が、今度は命がけでキリストを証しする使徒へと変えられていきました。

 失敗は人生の終わりではありません。

 神の恵みは、失敗した人をもう一度立ち上がらせる力を持っています。

 もし、自分の過去を思い出して苦しんでいる方がおられるなら、今日のペトロの姿を思い出してください。

 私たちは自分の失敗を忘れられなくても、主イエスはその失敗だけを見ておられるのではありません。主は私たちの弱さをご存じです。傷つき、自分に失望してうなだれている私たちを、今も優しいまなざしで見つめていてくださっています。

 ペトロが忘れられなかったのは、自分の失敗だけではありませんでした。その失敗の中で向けられた主のまなざしでした。

 そのまなざしは今も変わりません。

 私たちを責めて突き放すためではなく、赦し、立ち上がらせ、新しい歩みへと導くためのまなざしです。

 どうぞその主のまなざしを見上げてください。そこにこそ、やり直す勇気と希望が与えられるのです。

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