山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:すべてが終わった…そのとき何が起きたのか(マタイによる福音書27:45-66)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「もう終わった」と思った経験があるでしょうか。
長年続けてきた仕事を失った日。大切な人との別れを経験した日。病気の知らせを受けた日。あるいは、夢が打ち砕かれ、「もうこれ以上、前には進めない」と感じた日。そのような時、人は未来を見ることができなくなります。目の前にあるのは、ただ「終わり」という現実だけです。
イエス・キリストの弟子たちも、まさにそんな一日を経験しました。それが十字架の日でした。
三年間、一緒に歩み、「この方こそ救い主だ」と信じてきた先生が、犯罪人として十字架につけられ、息を引き取られたのです。弟子たちにとっては、希望が打ち砕かれた日でした。「すべてが終わった」。誰もがそう思ったことでしょう。
しかし、聖書は、その「終わった」と思われた日に、人の目には見えない大きな出来事が起こっていたことを伝えています。
今日、ご一緒にその出来事を見つめていきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書27章45節~66節までですが、長い箇所ですので45節~56節までを新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
まず、場面を思い浮かべてみましょう。
時は昼の十二時ごろ。本来なら一日の中で最も明るい時間です。ところが聖書はこう記しています。
「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」
真昼なのに闇が世界を覆いました。
聖書では、暗闇はしばしば神の裁きを表します。この暗闇は、ただの自然現象ではありません。人間の罪に対する神の厳しい裁きが、この十字架の上で行われていたことを示しているのです。
そして午後三時ごろ、イエスは大声で叫ばれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。
この叫びを聞いて、「神の子なのに、なぜ見捨てられるのか」と疑問に思う人もいるでしょう。
しかし、この十字架の上で起きていたことは、イエスご自身の罪に対する裁きではありませんでした。イエスには罪がありませんでした。そのイエスが、私たち人間の罪をすべて背負い、私たちが受けるべき裁きを代わりに引き受けてくださいました。
私たちが神から見捨てられないために、イエスが神から見捨てられる苦しみを味わわれました。そのことが、この叫びに込められています。
そして、イエスが息を引き取られた、その瞬間でした。
「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」とあります。
この一文は、とても短いのですが、聖書全体から見れば、たいへん大きな意味を持っています。
エルサレム神殿には、一番奥に「至聖所」と呼ばれる場所がありました。そこは神の臨在を象徴する場所です。しかし、その前には厚い垂れ幕が掛けられていました。罪ある人間は自由に神の前へ近づくことができませんでした。
ところが、その垂れ幕が裂けました。
しかも、「上から下まで」です。
人が下から裂いたのではありません。神が上から裂かれました。
これは、神ご自身が「もう隔ては取り除かれた。わたしのもとへ来なさい」と語っておられるような出来事です。
人は、「もっと立派になってから神のもとへ行こう」と考えます。「こんな自分では神に受け入れてもらえない」と思います。
しかし神は、そうではないと言われます。
あなたが完全だからではなく、イエスが十字架で救いを完成されたから、神のもとへ来ることができる。その道が開かれたのです。
さらに、不思議な出来事が続きます。
「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」
この出来事について詳しい説明はありません。しかし、マタイが伝えたかったことは明らかです。
十字架によって、死の支配が揺らぎ始めたということです。
それまで死は、人間にとって最後の敵でした。誰も逆らうことはできませんでした。
けれども、イエスの十字架は、その死の力さえ打ち破る救いの始まりでした。
その様子を見ていた百人隊長は、思わずこう告白しました。
「本当に、この人は神の子だった。」
皮肉なことに、長い間聖書を学んできた宗教指導者ではなく、ローマ軍の異邦人の兵士が、この真実に気づきました。
神は、思いもよらない人の心を開かれるお方です。
その後、イエスの遺体は、アリマタヤのヨセフによって丁重に墓へ葬られました。
そして宗教指導者たちは、最後の念押しをします。
「墓を見張らせてください。」
弟子たちが遺体を盗み、「復活した」と言い出すことを恐れていたからです。
そこで墓の入口には大きな石が置かれ、封印が施され、番兵まで配置されました。
人間にできる限りのことをして、「これで終わりだ」と確信したのです。
しかし、ここにマタイの描く深い皮肉があります。
人は石で墓を閉ざしました。
しかし、その石は神を閉じ込めることはできませんでした。
人は封印をしました。
しかし、その封印は神の計画を止めることはできませんでした。
番兵は墓を守りました。
しかし、神の命を閉じ込めることはできませんでした。
人には「終わり」としか見えなかったその場所で、神はすでに復活の朝を準備しておられたのです。
私たちの人生の中で、「もう終わった」と思う出来事に出会います。
病気、失敗、人間関係の破れ、将来への不安、愛する人との別れ。
その時には、神が何をしておられるのか、まったく見えません。
けれども十字架の日を思い出してください。
あの日、弟子たちには何も見えていませんでした。しかし神は、誰にも見えないところで救いを完成させ、復活という新しい朝へ向かって歴史を進めておられました。
私たちの人生も同じです。
人には終わりにしか見えない場所から、神は新しい希望を始めてくださるお方です。
その希望を信じて、新しい一歩を踏み出していただきたいと思います。




