山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:なぜイエスは沈黙したのか(マタイによる福音書27:11-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分について事実と違うことを言われた経験はありませんか。職場や学校で誤解されたり、誰かから心ないうわさを流されたりすると、「それは違います」と説明したくなるものです。
何も言わずに黙っていたら、「認めたことになる」と感じる人も少なくありません。ですから、自分を守るために言葉を尽くすのは、ごく自然なことです。
ところが、きょう取り上げようとしている聖書個所には、とても不思議な場面が描かれています。イエス・キリストは無実であるにもかかわらず、自分を弁護しようとなさいませんでした。それどころか、激しい訴えを受けても沈黙を貫かれます。
なぜイエスは沈黙されたのでしょうか。その沈黙には、私たちへのどんなメッセージが込められているのでしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書27章11節~14 までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
この場面は、イエスが十字架につけられる直前の出来事です。夜のうちに宗教指導者たちの裁判を受けたイエスは、朝になるとローマ総督ピラトのもとへ連れて行かれました。ユダヤ人の指導者たちはイエスを死刑にしたいと考えていましたが、当時、死刑を執行する権限はローマにありました。そのため、ローマ総督であるピラトの判決が必要でした。
しかし、ユダヤ人たちは宗教上の理由だけではピラトを動かせないことを知っていました。そこで、「神を冒涜した」という宗教問題ではなく、「ユダヤ人の王を名乗ってローマに反逆しようとしている危険人物だ」という政治的な訴えに内容を変えてしまいました。
そこでピラトはイエスに尋ねます。
「お前がユダヤ人の王なのか」と。
するとイエスはこうお答えになりました。
「それは、あなたが言っていることです」
不思議な答えです。イエスは「違います」とも、「そのとおりです」とも言われませんでした。
実際、イエスは王に他なりません。王の王、主の主と呼ばれるにふさわしいお方です。しかし、それはローマ帝国に反抗する政治的な王ではありません。ユダヤ人を解放するために、武装を企てた反逆者でもありませんでした。
神が遣わされた救い主として、人々の心を支配し、神の国へ導く力をもった王です。
ですから、人々が考えている意味で「王」と答えることは誤解を招きます。しかし、「王ではない」と答えることも真実ではありません。
そこでイエスは、「それは、あなたが言っていることです」とだけお答えになりました。それは「王」という言葉の意味が何であるかも含めて、ピラトやユダヤ人たちがそう主張しているにすぎないだけのことだという指摘です。
その後、祭司長たちや長老たちは次々とイエスを訴えました。しかし聖書はこう記しています。
「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。」
ピラトは驚きました。普通なら、少しでも自分に不利な証言があれば必死に弁明するはずだからです。そこでピラトは言います。
「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」
それでもイエスは沈黙を守られました。
「どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」
そう聖書は記しています。
この沈黙は、言い返せなかった沈黙ではありません。何を言えばよいかわからなかったからでもありません。イエスは、あえて沈黙されました。
それはなぜでしょうか。
その答えは、イエスが自分を救うためではなく、私たちを救うために来られたからです。
もしイエスがここで自分の無実を徹底的に証明し、釈放される道を選ばれたなら、十字架へ向かうことはありませんでした。しかし十字架こそ、神が罪ある私たちを救うために備えられた道でした。イエスはその使命を果たすために、自ら進んで苦しみを受けられたからに他なりません。
この姿は、旧約聖書イザヤ書53章に記された「苦難のしもべ」の預言を思い起こさせます。そのしもべは、屠り場へ引かれて行く小羊のように、口を開かないと預言されていました。イエスの沈黙は、その預言が実現した姿でもありました。
私たちは、自分が誤解されたり、非難されたりすると、すぐに自分を正当化したくなります。もちろん、真実を語ることが必要な場合もあります。イエスご自身も、真理を語るべきときには大胆に語られました。
しかし、この場面でイエスが教えてくださるのは、自分を守ることよりも、神の御心を第一にする姿勢です。すべてを説明して自分の正しさを認めてもらおうとするよりも、神がすべてをご存じであることを信頼して委ねる。そのような信仰があることを、イエスは身をもって示してくださいました。
そして何よりも忘れてはならないのは、この沈黙が私たちへの愛の沈黙だったということです。
イエスはご自分のために黙られたのではありません。私たちの罪を負って十字架へ進むために、あえて沈黙されました。もしイエスが自分を守る道を選ばれたなら、私たちは救いを受けることができませんでした。
だからこそ、イエスの沈黙は決して弱さではありません。それは神への完全な信頼であり、私たちへの限りない愛の表れでした。
人生には、誤解されることもあります。不当な扱いを受けることもあります。そのたびに私たちは、自分を守ることばかり考えてしまいます。しかし今日のイエスの姿は、神に信頼して歩む道があることを教えています。
そして、その沈黙の先には十字架があり、十字架の先には復活がありました。
イエスは負けたから沈黙されたのではありません。恐れたからでもありません。その沈黙はまさにあなたを救うためでした。
その沈黙は、言葉以上に力強く、神の愛を私たちに語り続けています。



