山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:なぜ人は、本当の価値を見誤るのか(マタイによる福音書27:27-31)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「本物だと思っていたら偽物だった」という経験はないでしょうか。あるいは反対に、「こんなものに価値はない」と思っていたものが、実は大変貴重なものだったという話を耳にしたことがあるかもしれません。
私たちは、見た目や評判、値札や肩書きで物や人の価値を判断してしまいがちです。しかし、その判断が正しいとは限りません。
きょう取り上げようとしている聖書の個所は、人類が最も価値あるお方を、最も価値のない者として扱ってしまった場面です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書27章27節~31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
きょう取り上げた出来事は、イエス・キリストがローマ総督ピラトから十字架刑の判決を受けた直後のことです。十字架刑は、ただ命を奪う刑罰ではありません。人前で徹底的に辱め、人格を踏みにじるための刑でもありました。そのため、処刑の前には兵士たちが囚人を嘲笑い、いたぶることも珍しくありませんでした。
そのような中で、マタイによる福音書はこう記しています。
「イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。」
兵士たちは、イエスを「王」と呼びました。しかし、それは信じていたからではありません。徹底的に馬鹿にするためでした。
赤い外套は王の衣装のつもりでしょう。茨の冠は王冠の代用品です。葦の棒は王が持つ杖のまねです。そして、ひざまずいて「ユダヤ人の王、万歳」と叫びながら笑いものにしました。
ローマの兵士たちにとって王とは、強い者でした。武力を持ち、人々を支配し、命令すれば軍隊が動くような存在です。
ところが目の前のイエスはどうだったでしょう。縛られ、抵抗することもなく、兵士たちのなすがままです。彼らには、イエスは弱く、無力で、敗北した人間にしか見えませんでした。
だから、価値のない者だと決めつけました。
しかし、ここに大きな皮肉があります。
兵士たちは冗談のつもりで「ユダヤ人の王」と呼びました。しかし、その言葉は実は真実でした。イエスこそ、神がお遣わしになったまことの王でした。
兵士たちは、本当の王を目の前にしながら、その価値をまったく理解できませんでした。
けれども、これは兵士たちだけの問題でしょうか。
私たちも同じことをしていないでしょうか。
私たちは、力のある人を評価します。成功した人を尊敬します。有名な人に注目します。肩書きや収入、学歴や人気によって、人の価値を測ろうとしてしまいます。
一方で、弱い人や失敗した人、目立たない人を、知らず知らずのうちに低く見てしまうことがあります。
しかし、本当の価値は、そのような基準では測れません。
イエスは力がなかったから黙っていたのではありません。私たちを救うために、自らその苦しみを引き受けられたのです。
兵士たちは、唾を吐き、頭をたたきました。それでもイエスは、その場から逃げませんでした。
なぜでしょうか。
それは、その先に十字架があったからです。
そして、その十字架こそが、神の愛を示す場所だったからです。
人間の目には、十字架は敗北です。無力さの象徴です。
しかし神は、その十字架によって罪を赦し、人を救うというご計画を成し遂げられました。
人が最も恥ずべきものと思った場所が、神の救いが最も鮮やかに現れる場所となりました。
ここに、神の価値観があります。
神は、力ではなく愛をご覧になります。人を踏みつけて高くなる者ではなく、自ら低くなって人を生かすお方を尊いとされます。
だからこそ、十字架へ向かわれるイエスこそ、本当の王ということができます。
最後に、一つのことを考えてみたいと思います。
あなたは、イエスというお方を、どのようなお方として見ておられるでしょうか。
昔の偉人のひとりでしょうか。立派な教師でしょうか。それとも、自分とは関係のない宗教の人物でしょうか。あるいは、教会や聖書に良いイメージを持てず、遠い存在だと感じておられるかもしれません。
兵士たちは、目の前にいるイエスの本当の姿を見誤りました。縛られ、抵抗せず、なすがままになっている姿だけを見て、「これは弱く、価値のない人間だ」と決めつけてしまったのです。しかし彼らは、その内側にある真実には、まったく気づいていませんでした。
私たちも、似たようなことをしているかもしれません。忙しい毎日の中で、イエスについてじっくり考える時間はなかなか取れないものです。「よく知らないけれど、なんとなくそういうものだろう」という思い込みのまま、通り過ぎてしまっていないでしょうか。
しかし、イエスは、そのように見誤られ、拒まれ、辱められることを知りながら、十字架への道を引き返しませんでした。自分を侮辱する兵士たちのためにも、自分を正しく理解しようとしない私たちのためにも、命をささげようとされたのです。
ここに、何ものにも代えがたい神の愛があります。人からどう評価されるかではなく、どれほど深く、どこまでも愛し抜くことができるか。それこそが本当の価値だと、十字架は私たちに教えています。
その愛を、最も完全な形で示してくださったのが、あの日、茨の冠をかぶせられ、十字架へと向かわれたイエス・キリストでした。
どうか今日、このお方を、もう一度新しい目で見つめてみてください。人々には敗北者にしか見えなかったそのお方こそ、あなたを愛し、あなたを救うために来られた、まことの王なのです。




