聖書を開こう

後悔と絶望の分かれ道(マタイ27:1-10)

放送日
2026年7月2日(木)
お話し
山下正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:後悔と絶望の分かれ道(マタイ27:1~10)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「あの時、あんなことをしなければよかった」と、深く後悔した経験はありませんか。誰にでも、大なり小なりそのような経験があると思います。軽い失敗なら、謝ったりやり直したりすることができます。しかし中には、「もう取り返しがつかない」と思える出来事もあります。そのような後悔は、人の心を深く苦しめます。

 きょう取り上げようとしている個所には、そのような後悔に押しつぶされた一人の人物が登場します。それは、イエスを裏切った弟子イスカリオテのユダの話です。しかし、この出来事は、ただ「ユダは悪い人だった」という話ではありません。聖書は、後悔したときに私たちはどこへ向かうのか、それが人生を大きく左右することを教えています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書27章1節~10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」

 今お読みした場面は、イエスが逮捕された翌朝の出来事です。夜の間に大祭司や長老たちはイエスを裁き、夜が明けると正式に死刑にすることを決めました。しかし当時、ユダヤ人には死刑を執行する権限がありませんでした。(ヨハネ18:31参照)そのため、ローマ総督ピラトのもとへイエスを引き渡します。宗教指導者たちは、何としてもイエスを十字架につけようとしていました。

 その時、マタイは突然、ユダの様子を描き始めます。

 ユダは、イエスに有罪判決が下ることを知ると、銀貨三十枚を祭司長たちのところへ持って行き、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白しました。

 ここで注目したいのは、ユダが自分の罪を認めていることです。ユダは言い訳をしていません。誰かにそそのかされてこんなことをしてしまったと責任転嫁することもありません。「私が罪を犯しました」と率直に認めています。

 ところが祭司長たちの返事は、あまりにも冷たいものでした。

 「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」

 何という冷酷な言葉でしょうか。ユダを利用するときには利用しました。しかし、苦しみ始めたユダには何の手も差し伸べません。人は時として、この祭司長たちのようになります。利用価値がある間は近づき、都合が悪くなると突き放してしまいます。

 行き場を失ったユダは、銀貨を神殿に投げ込み、その場を去って首をつって死んでしまいました。

 ここに、この物語の悲しさがあります。

 ユダは、自分の罪を認めました。後悔もしました。しかし、赦してくださる神のもとへ行くことはありませんでした。

 実は、新約聖書には、ユダと同じようにイエスを裏切った弟子がもう一人います。それはペトロです。ペトロは、「あなたを知らない」と三度もイエスを否定しました。ペトロもまた激しく泣きました。

 けれども、その後の二人の歩みは大きく分かれます。

 ユダは絶望へ向かいました。

 ペトロは、復活したイエスと出会い、赦され、新しい使命を与えられました。

 この違いは、罪の重さではありません。どちらも主を裏切った点で違いはありません。違いは、その後、誰のもとへ向かったかでした。

 後悔することと、悔い改めることは同じではありません。

 後悔とは、自分の失敗を悲しむことです。しかし悔い改めとは、その罪を抱えたまま神のもとへ帰ることです。

 ユダには後悔がありました。しかし、悔い改めがありませんでした。

 一方、ペトロは涙を流しながらも、最後には主のもとへ帰りました。

 私たちも人生で失敗します。人を傷つけたり、約束を破ったり、自分自身に失望したりすることがあります。その時、多くの人は「こんな自分はもうだめだ」と考え、自分を責め続けます。また、人から認めてもらうことで何とか償おうとしたり、自分の努力で立ち直ろうとしたりします。

 しかし、人は私たちの罪を赦すことはできません。また自分自身も、自分の罪を消すことはできません。

 罪を赦すことがおできになるのは、十字架にかかってくださったイエス・キリストおひとりだけです。

 この箇所の最後には、祭司長たちが銀貨三十枚で「陶器職人の畑」を買ったことが記されています。マタイは、それが旧約聖書の預言の実現だったと語ります。

 人間は神の御子を十字架につけるという最大の罪を犯しました。しかし、その人間の罪さえも、神は救いのご計画の中で用いられました。もちろん、神が悪を望まれたということではありません。しかし、人間の罪によって神の救いの計画が失敗に終わることは決してありません。

 それほどまでに、神の御計画は確かで、その恵みは大きく人間の思いを遥かにを超えています。

 もし今、「あの時の失敗が忘れられない」「もうやり直せない」と苦しんでおられる方がいるなら、どうか思い出してください。

 後悔は人生の終わりではありません。

 問題は、後悔したあと、どこへ向かうかです。

 イエスは、罪を犯した人を退けるためではなく、赦すために十字架へ向かわれました。

 あなたがどれほど深い後悔を抱えていたとしても、主のもとへ行くなら、そこには赦しがあります。絶望ではなく、新しい歩みが備えられています。

 今日もイエス・キリストは、後悔の中にある私たち一人ひとりを、ご自分のもとへ招いておられるのです。

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