聖書を開こう

叫びに流されるとき(マタイによる福音書27:15-26)

放送日
2026年7月16日(木)
お話し
山下正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:叫びに流されるとき(マタイによる福音書27:15-26)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「みんながそう言っているから」という理由で、自分の考えを変えてしまった経験はないでしょうか。

 学校でも、職場でも、あるいはインターネットやSNSでも、多くの人が同じことを言い始めると、それが正しいように思えてしまうことがあります。本当は少し違和感を覚えていても、「自分だけ反対するのは勇気がいる」と感じて、結局はその流れに従ってしまう。私たちは、自分で思っている以上に「大勢の声」の影響を受けながら生きています。

 実は、イエス・キリストが十字架につけられた日のエルサレムでも、一人の無実の方の運命が、人々の叫びによって決められてしまいました。今日は、その場面をご一緒に見ていきたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書27章15節~26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 イエスはすでにユダヤ人の最高法院で有罪とされていました。しかし、当時ユダヤ人には死刑を執行する権限がありませんでした。そこで彼らは、ローマ総督ピラトのもとへイエスを連れて行きます。

 ちょうどその頃は過越祭でした。この祭りには、総督が民衆の望む囚人を一人釈放する習慣がありました。ピラトは、この慣習を利用してイエスを助けようと考えます。

 聖書にはこうあります。

 「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

 バラバは評判の囚人でした。民族解放のために暴動や殺人に関わった人物であったと言われています。一方、イエスは人々を癒やし、神の愛を語り続けてこられた方です。本来なら、どちらを釈放すべきかは明らかでした。

 実際、ピラトもそれを知っていました。18節には、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」とあります。さらに妻からも、「あの正しい人に関係しないでください」と警告が届きます。

 ピラトには、イエスが無実であることを示す十分な材料がありました。

 ところがピラトは、正しいことを貫くことができませんでした。

 群衆が騒ぎ始めると、自分の立場や秩序を守ることを優先しました。

 私たちはピラトを弱い人間だと思うかもしれません。しかし、考えてみれば、私たちにも似たところがあります。

 「これは正しくない」と分かっていても、波風を立てたくない。人間関係を壊したくない。周囲に合わせた方が楽だ。そのような理由で、自分の良心に逆らってしまうことがあります。

 知っていることと、その通りに行動することとは、決して同じではありません。

 しかし、この場面でさらに恐ろしいのは群衆の姿です。

 総督がもう一度尋ねます。

 「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか。」

 すると人々は、「バラバを」と答えました。

 さらにピラトが尋ねます。

 「では、メシアといわれるイエスの方は、どうしたらよいか。」

 すると皆は声をそろえて叫びます。

「十字架につけろ。」

 ピラトはなおも問い返します。

 「いったいどんな悪事を働いたというのか。」

 しかし聖書はこう記しています。

 「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」

 誰一人として、イエスがどんな罪を犯したのかを説明していません。ただ叫び声だけが大きくなっていきます。

 それが群衆というものです。

 叫び声は、しばしば真実よりも大きな力を持ちます。

 これは二千年前だけの話ではありません。

 今日でも、事実をよく確かめないまま、人の評判だけで誰かを判断することがあります。インターネットでは、一つの投稿が瞬く間に広がり、多くの人が同じ方向へ流れていきます。「みんながそう言っている」という空気が、私たちの判断を支配することがあります。

 この聖書の記事は、昔の群衆を裁くためではなく、私たち自身の姿を映し出しています。

 しかし、この出来事には、もう一つの大切な意味があります。

 釈放されたのはバラバでした。不思議なことに、彼もまたイエスという名前でした。

 十字架へ向かわれたのはメシアであるイエスでした。

 本来なら十字架につくべきだったのは、罪を犯したバラバです。しかし、自由になったのはバラバであり、罪のないイエスがその代わりに十字架に向かわれました。

 ここに福音があります。

 イエスは偶然、群衆の叫び声に負けて十字架につけられたのではありません。

神は、この出来事を通して、罪ある者を救う道を備えておられました。

 バラバの姿は、実は私たち一人一人の姿でもあります。

 神の前に完全に正しいと言える人は誰もいません。その私たちが赦され、神との新しい関係に生きることができるように、罪のないイエスが私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。

 あの日、一番大きな声は、「十字架につけろ」という叫びでした。

 しかし、一番大切だったのは、その叫び声ではありません。

 その叫びの向こうで、イエスが黙って十字架への道を歩んでおられたことです。

 人々は憎しみで叫びました。しかしイエスは、その人々のために命をささげられました。

 私たちの人生にも、さまざまな声が聞こえてきます。世間の声、人の評価、自分の恐れ。それらは時として、神の声よりも大きく響くことがあります。

 けれども、聖書はきょう、私たちに問いかけています。

 あなたは、どの声に従って歩むのでしょうか。

 叫び声に流されるのではなく、私たちのために十字架へ向かわれた主イエス・キリストの静かな招きの声に耳を傾けたいと思います。その方こそ、私たちを真実と救いへと導いてくださるお方なのです。

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