聖書を開こう

沈黙するイエスと、叫ぶ人々(マタイによる福音書26:57-68)

放送日
2026年6月18日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:沈黙するイエスと、叫ぶ人々(マタイによる福音書26:57-68)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「声の大きい人が勝つ」という場面は、意外とよく目にします。

 職場でも学校でも、あるいはインターネットの世界でも、事実が十分に分からないうちから誰かが激しく非難され、多くの人がそれに同調することがあります。声が大きければ大きいほど、それが正しい意見であるかのように聞こえてしまうことさえあります。

 反対に、非難されている人が何も言い返さないと、「きっと反論できないのだろう」「やはり悪いことをしたのだろう」と思われてしまうこともあります。

 けれども、聖書には、まったく逆の場面が記されています。大勢の人々が叫び続ける中で、ただひとり沈黙しておられる方がおられました。そして最後に正しかったのは、叫んでいた人々ではなく、沈黙しておられたその方でした。それが今日の聖書箇所に登場するイエス・キリストです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章57節~68節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。
 あなたたちはやがて、
   人の子が全能の神の右に座り、
 天の雲に乗って来るのを見る。」
 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

 今お読みした箇所は、イエスが十字架にかけられる直前の夜に起こりました。イエスは縛られたまま大祭司カイアファのもとへ連れて行かれます。

 そこには祭司長たちや長老たち、律法学者たちが集まっていました。ユダヤ社会の最高議会ともいえる最高法院の人々です。本来ならば、公平に事実を調べ、正しい判断を下すべき立場の人たちでした。

 ところが聖書は驚くべきことを語っています。

 59節には、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」とあります。

 普通の裁判なら、証拠を集めて真実を明らかにします。しかし最高法院の議員たちは最初からイエスを有罪にしようと決めていました。

 多くの偽証人が現れましたが、証言は食い違いました。最後に二人の証人が現れて、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と証言します。しかしそれもイエスの言葉を歪めたものでした。

 ここに人間の罪深さを見ることができます。

 私たちは真実を知りたいと言いながら、実は自分の考えを正当化したいだけということが少なくありません。自分に都合のよい情報だけを集め、自分の思い込みを補強しようとします。この裁判は二千年前の宗教指導者たちの失敗ではなく、私たち自身の姿を映し出しています。

 そんな中、大祭司はイエスに向かって言います。

 「何も答えないのか。」

 しかしイエスは沈黙しておられました。

 それは何も言えなかったからではありません。沈黙は弱さではなく、父なる神への従順の現れでした。

 旧約聖書イザヤ書には、苦難を受けるしもべについて、「屠り場に引かれる小羊のように彼は口を開かなかった」(イザヤ53:7)と記されています。イエスはまさにその預言を成就しておられました。

 イエスは自分を守ることよりも、神の御心に従うことを選ばれました。

 本当の強さとは、自分を大きく見せることではありません。神を信頼して歩むことです。

 ところが、イエスは最後まで沈黙されたわけではありません。

 大祭司がこう尋ねた時です。

 「お前は神の子、メシアなのか。」

 この問いに対して、イエスははっきりと答えられました。

 「それは、あなたが言ったことです。」

 さらに、「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と語られました。

 これは、ご自分が神から遣わされた救い主であり、やがて世界を裁く主であることを宣言する言葉でした。

 今この時、イエスは被告席に立っています。しかし実は、最後にすべての人を裁かれるのはイエスご自身、そのお方です。

 裁いているつもりだった人々こそ、本当は神の前に立たされていました。しかし人々はその言葉を受け入れませんでした。

 大祭司は衣を引き裂いて、「神を冒涜した」と叫びます。そして人々は、「死刑にすべきだ」と声をそろえました。

 さらに彼らはイエスに唾を吐きかけ、殴り、平手で打ち、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と嘲りました。

 なんと悲しい光景でしょうか。神の子が、人々の憎しみと嘲りの中に立っておられます。

 この時、人々は自分たちが勝ったと思ったことでしょう。イエスは敗北したように見えました。しかし実際には逆でした。

 イエスは十字架への道を歩むことによって、人類の罪を背負い、救いを成し遂げようとしておられたのです。人々の悪意さえも、神は救いのご計画の中で用いておられました。

 私たちはこの箇所から何を学ぶのでしょうか。

 第一に、群衆の声がいつも正しいとは限らないということです。多くの人が言っているから正しいのではありません。大切なのは神の前で何が真実かということです。

 第二に、自分を正当化することばかりに心を奪われないことです。もちろん説明が必要な時もあります。しかし、自分の名誉を守ることが人生の中心になってしまうなら、私たちは神への信頼を失ってしまいます。

 第三に、神が沈黙しておられるように見える時にも、神の御業は進んでいるということです。

 あの日の法廷で、神は何もしておられないように見えました。しかし実際には、人類救済という最大の御業が進められていました。

 私たちの人生にも、神がおられないように感じる時があります。祈りが聞かれていないように思える時もあります。しかし神の沈黙は不在ではありません。神は見えないところで働いておられます。

 大勢の人々が叫び続けたあの日、その声はやがて消え去りました。しかし沈黙しておられたイエスの言葉は、今も世界中で語り継がれています。

 私たちもまた、声の大きな世の中の言葉ではなく、十字架へ向かわれた主イエスの声に耳を傾けながら歩んでいきましょう。

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