聖書を開こう

なぜ、生きておられる方を探すのか(マタイによる福音書28:1-10)

放送日
2026年8月13日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:なぜ、生きておられる方を探すのか(マタイによる福音書28:1-10)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 亡くなった大切な人に、もう一度会いたいと思ったことはありますか。

 そんなとき、私たちは、その人が生きていた場所を訪ねたり、写真を見たり、お墓に行ったりします。そこには、その人との思い出が残っているからです。

 今日の聖書には、墓へ向かう二人の女性が登場します。彼女たちが探していたのは、十字架で死なれたイエスでした。

 ところが、墓で彼女たちが聞いたのは、思いもよらない言葉でした。

 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

 「あの方は、ここにはおられない。」

 今日は、この言葉を心に留めながら、「なぜ、生きておられる方を探すのか」というタイトルで、ご一緒に聖書を開いてみたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書28章1節~10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 マタイによる福音書28章は、十字架で亡くなったイエスが墓に葬られた、その直後から始まります。

 弟子たちにとっても、イエスを慕っていた女性たちにとっても、すべてが終わったように思われる時でした。

 安息日が終わった「週の初めの日の明け方」、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓へ向かったのも、復活を期待していたからではありません。死んだイエスを訪ねるためでした。

 ところが、そこで起こったことは、予想をすべて覆すものでした。

 大きな地震が起こり、天使が天から降りてきて、墓をふさいでいた石をわきへ転がします。そして天使は、婦人たちにこう言います。

 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

 ここで、天使の言葉を少し丁寧に聞いてみましょう。

 「あの方は、ここにはおられない。」

 これは、「イエスはもうどこにもいない」という意味ではありません。むしろ、その反対です。

 イエスは生きておられる。だから、死者を置く墓にはおられないのです。

 婦人たちは、「十字架につけられたイエス」を探していました。しかし、天使が告げたのは、「あなたがたが探している方は、もうここにはいない」ということでした。

 これは、私たちにも問いを投げかけています。

 私たちは、イエスをどこに探しているでしょうか。

 「昔、イエスという人がいた」と、歴史の中にイエスを探してはいないでしょうか。

 あるいは、イエスが残した教えの中だけにイエスを探してはいないでしょうか。

 もちろん、イエスの生涯を学び、その教えを知ることは大切です。しかし、キリスト教が伝える福音は、それだけではありません。

 イエスは、過去の人物ではない。今も生きておられる主である。

 これが復活の知らせです。

 復活とは、死んだイエスの思い出を大切にすることではありません。生きておられるイエスと出会い、その方に従って歩むことです。

 天使は婦人たちに、「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい」と命じます。

そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と告げます。

 ここも大切なところです。

 復活されたイエスは、墓の前にずっと立ち止まっておられるのではありません。弟子たちより先に、ガリラヤへ行かれます。

 そして9節を見ると、婦人たち自身が復活されたイエスと出会います。

 イエスは婦人たちの行く手に立って、「おはよう」と言われます。

 なんと日常的な言葉でしょうか。

 天使が現れ、地震が起こり、墓が開かれた。そのような驚くべき出来事の後で、復活されたイエスが婦人たちに語られた最初の言葉は、「おはよう」でした。

 ここに、復活された主の姿があります。

 復活されたイエスは、遠いところにおられる方ではありません。私たちの生活のただ中に来てくださる方です。そして、「恐れることはない」と語りかけてくださる方です。

 私たちも人生の中で、「もう終わった」と思うことがあるでしょう。

 そんなとき、私たちは「過去」という墓の前に立ち続けてしまいます。

 「あのとき、こうしていればよかった」と過去を見つめ続けます。

 けれども、復活の主は、私たちを墓の前に置き去りにはなさいません。

 これから行くべき場所へイエスが先に行ってくださいます。

 私たちは、すべてが分かってから歩き出す必要はありません。

 先のことが見えなくても、主が先に行ってくださることを信じて、一歩を踏み出すことができます。

 8節には、婦人たちの姿がこう記されています。

 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」

 婦人たちは、最初、墓へ向かって歩いていました。

 しかし、復活された主について知らされた後は、墓から離れて走り始めます。

 ここに、復活が人の人生を変える力が表れています。

 復活は、私たちの視線を変えます。

 「何が終わったのか」だけを見るのではなく、「主がこれから何を始めてくださるのか」を見るようにしてくださいます。

 私たちが覚えたいのは、この一つの言葉です。

 「あの方は、ここにはおられない。」

 イエスが墓におられないのは、イエスがいなくなったからではありません。

 生きておられるからです。

 そして、生きておられる主は、私たちより先に行ってくださいます。

 ですから、私たちも過去の墓だけを見つめ続けるのではなく、主が備えてくださる今日へ、そして明日へと歩んでいきましょう。

 あなたの人生に、「もう終わった」と思っていることがあるなら、その場所だけを見つめないでください。

 復活された主は、あなたより先に行っておられます。

 「恐れることはない。」

 その主の声を聞きながら、今日も一歩、歩み出していきましょう。

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