聖書を開こう

ひとりで祈る夜~ゲツセマネの決断(マタイによる福音書26:36-46)

放送日
2026年6月4日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:ひとりで祈る夜~ゲツセマネの決断(マタイによる福音書26:36-46)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 眠れない夜を過ごしたという経験は、誰にでも一度はあると思います。昼間はなんとか平気な顔をしていても、夜になると急に不安が押し寄せてくる。これから先のことを考えて、胸が苦しくなる。誰にも言えない悩みを抱えながら、ひとりで天井を見つめる。そんな夜です。

 「このままでいいのだろうか」「もう逃げ出したい」。人生には、そういう夜があります。

 実は、イエス・キリストにも、そのような夜がありました。聖書は、十字架につけられる前のイエスの姿を、驚くほど正直に描いています。苦しみも、恐れも、孤独も、隠してはいません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章36節~46節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 今お読みした場面に登場する場所は「ゲツセマネ」と呼ばれる庭園です。「ゲツセマネ」という名前には、「油絞り」という意味があります。オリーブの実を押しつぶして油を取り出す場所です。その名の通り、イエスはこの場所で、押しつぶされるような苦しみを味わわれました。

 この直前、イエスは弟子たちと最後の食事を終えたばかりでした。いわゆる最後の晩餐です。その席でイエスは、ご自分が裏切られ、苦しみを受け、死ぬことをすでに語っておられました。しかし弟子たちは、まだ本当には理解していませんでした。

 そのあとイエスは弟子たちを連れてゲツセマネへ向かわれます。そして弟子たちにこう言われました。

 「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」

 さらにペトロとゼベダイの子二人を連れて行かれましたが、その時、イエスは悲しみもだえ始められました。

 聖書にはこうあります。

 「わたしは死ぬばかりに悲しい。」

 これは非常に重い言葉です。イエスは、平然と十字架へ向かったのではありません。むしろ、「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃいました。

 ここに、イエスの本当の人間性があります。

 イエスは神の子であられるお方ですが、同時に、人としてこの地上を歩まれました。だからこそ、苦しみを知らない方ではありません。恐れを知らない方でもありません。

 十字架の苦しみは、単なる肉体的な苦痛ではありませんでした。人々の罪を背負う苦しみでした。神の裁きを引き受ける苦しみでした。そして、完全な孤独の苦しみでした。

 イエスはその重さを前にして、深く苦しまれました。そしてイエスは祈られました。

 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」

 この「杯」という言葉は、聖書の中ではしばしば苦しみや神の怒りを意味します。つまりイエスは、「できるなら、この苦しみを避けさせてください」と祈られたのです。

 これはとても大切な場面です。なぜなら私たちは時々、「本当に信仰が強い人なら、苦しいと言わないはずだ」と考えてしまうからです。しかしイエスは違いました。苦しみを苦しいとおっしゃったのです。「避けたい」と祈られたのです。

 ここに慰めがあります。

 私たちも人生の中で、「この苦しみから逃れたい」と祈ることがあります。

 そして時には、「こんな祈り方では信仰が足りないのではないか」と自分を責めてしまうこともあります。

 けれどもイエスご自身が、「この杯を過ぎ去らせてください」と祈られました。ですから、苦しい時に苦しいと言うことは、信仰のないことではありません。本当の祈りとは、無理に強がることではありません。神の前で、自分の弱さを正直に差し出すことです。

 しかしイエスの祈りは、そこで終わりませんでした。イエスは続けてこう祈られます。

 「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 ここにゲツセマネの祈りの中心があります。イエスは苦しみを隠しませんでした。しかし最後には、父なる神にご自分をお委ねになりました。これは諦めではありません。投げやりでもありません。父なる神への信頼です。

 イエスは、「苦しみがなくなること」より、「神に従うこと」を選ばれました。そして、その従順によって、十字架への道を歩まれたのです。

 もしイエスがここで逃げ出していたなら、十字架も復活もありません。私たちの罪の赦しもありません。ゲツセマネは、十字架の前の決断の場所でした。

 ところが、その間、弟子たちはどうしていたでしょうか。眠っていました。

イエスは戻って来ておっしゃいます。

 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」

 弟子たちは、「たとえ他の人がつまずいても、自分は決して離れません」と言っていました。しかし現実には、祈ることもできず、眠ってしまっていました。これが人間の弱さです。私たちも同じです。

 イエスはそんな弟子たちに向かってこう言われました。

 「心は燃えても、肉体は弱い。」

 イエスは、人間の弱さをご存じです。だからこそ、弱い私たちを見捨てることはなさいません。

 さて、このゲツセマネの場面は、今を生きる私たちに何を語っているのでしょうか。まず言えることは、私たちにも「ゲツセマネの夜」があるということです。将来が見えなくなる夜があります。家族の問題で押しつぶされそうになる夜があります。病気や孤独の中で、誰にも理解されないと感じる夜があります。

 しかし、その時、イエスは遠くにおられる方ではありません。同じ苦しみを通られた方です。孤独を知っておられる方です。「死ぬばかりに悲しい」と言われた方です。

 だからイエス・キリストは私たちの祈りを理解することができます。

 また、ゲツセマネは、「祈る」ということの本当の姿を教えています。祈りとは、立派な言葉を並べることではありません。神の前で、自分の本当の心を差し出すことです。

 「つらいです。」「怖いです。」「逃げたいです。」そういう祈りを、神は退けません。

 そして最後に、「それでも、あなたにお委ねします」と祈るところへ、少しずつ導かれていきます。

 ゲツセマネで、イエスはひとり祈られました。弟子たちは眠り、やがて逃げ去っていきます。それでもイエスは、十字架への道を進まれました。それは、私たちを救うためでした。

 私たちが孤独の夜を過ごす時にも、主はその苦しみをご存じです。そして今も、「目を覚まして祈りなさい」と優しく招いておられます。ひとりで祈る夜にも、私たちは本当はひとりではありません。その夜に、主イエス・キリストが共にいてくださるからです。

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