聖書を開こう

剣か、神の計画か(マタイによる福音書26:47-56)

放送日
2026年6月11日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:剣か、神の計画か(マタイによる福音書26:47-56)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人は恐れを感じると、自分を守ろうとします。危険を感じれば身構えますし、傷つけられれば言い返したくなります。ときには、相手を「剣」で攻撃することで自分を守ろうとすることもあります。

 もちろん、ここで言う「剣」とは、実際の武器ではありません。怒りの言葉かもしれません。相手を打ち負かそうとする態度かもしれません。あるいは、自分の正しさを振りかざして人を追い詰めることかもしれません。

 今日ご一緒に考えたいのは、「私たちは何によって生きようとしているのか」ということです。剣によってでしょうか。それとも神への信頼によってでしょうか。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章47節~56節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 今お読みした箇所はイエス・キリストが捕えられる場面です。場所はゲツセマネの園です。最後の晩餐を終えた後、イエスは弟子たちと共にこの園に来られました。そして深い苦しみの中で祈られました。しかし弟子たちは眠ってしまいました。

 そこへ、十二弟子の一人ユダがやって来ます。しかもユダは、祭司長たちや民の長老たちから送られた大勢の群衆を連れていました。彼らは剣や棒を手にしています。

 過越祭の時期、エルサレムは非常に緊張した空気に包まれていました。宗教指導者たちは、イエスを放置すれば民衆の騒ぎが起こることを恐れていたからです。そこで夜のうちに、ひそかにイエスを捕えようとしました。

 ユダは、口づけを合図にしてイエスを引き渡します。本来、口づけは親しみや愛情のしるしです。しかしその口づけが、裏切りのしるしとなってしまいました。人間の罪の深さを感じさせる場面です。

 けれどもイエスは逃げようとはなさいませんでした。むしろユダに向かって、「友よ、しようとしていることをするがよい」とおっしゃいます。

 ここに、イエスの不思議な落ち着きがあります。イエスは状況に振り回されているのではありません。これから何が起こるのかを知ったうえで、自ら進んでその道を歩まれます。

 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が剣を抜き、大祭司の手下に切りかかって、その耳を切り落としました。ヨハネによる福音書によれば、剣を手にしたのはペトロでした。

 弟子たちからすれば当然だったかもしれません。愛する先生が捕えられようとしているのです。戦って守ろうとしたのでしょう。

 しかしイエスはおっしゃいました。

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

 これはとても重い言葉です。

 イエスは、暴力によって神の国を実現することを拒まれました。力によって相手をねじ伏せても、本当の救いは生まれないからです。

 もちろん、この言葉は単純に「何も抵抗してはいけない」という意味ではありません。ここで問題となっているのは、「神の御心を、人間の力や暴力で実現しようとすること」です。

 弟子たちは、「イエスを守るため」という正しい理由を持っていたでしょう。しかしイエスは、その方法を退けられたのです。

 私たちにも同じことが起こります。

 正しいことのためなら、強い言葉を使ってもよい。相手を傷つけても仕方ない。そう思ってしまうことがあります。家庭でも、職場でも、教会でも、あるいはインターネットの世界でも、私たちは簡単に「剣」を抜いてしまいます。

 しかしイエスは、「勝つこと」よりも、「父なる神に従うこと」を選ばれました。

 さらにイエスはこうおっしゃいます。

 「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」

 つまりイエスは、本気で抵抗しようと思えばできました。無力だったのではありません。しかし、それでも抵抗されませんでした。

 なぜでしょうか。

 イエスは続けておっしゃいます。

 「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されようか。」

 十字架への道は、偶然の悲劇ではありませんでした。神がお立てになった救いの計画でした。それは人間には思いもつかない計画でした。

 人々の裏切りも、憎しみも、暴力もありました。しかしそれらすべてを超えて、神は救いの御業を進めておられました。

 その夜、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまいます。人間の弱さが露わになります。しかしそれでも神の計画は止まりません。

 イエスは、ご自分を守るためではなく、私たちを救うために捕えられていきました。

 私たちはどうでしょうか。

 不安になると、自分を守るための「剣」を握ろうとします。怒り、攻撃、冷たい言葉、無視、自分の正しさ。それらによって自分を守ろうとします。

 しかし主イエスは、「剣をさやに納めなさい」と語られます。

 そして、ご自身が先に、神への信頼の道を歩まれました。

 十字架の道は敗北に見えました。しかし、その先には復活がありました。人間の悪意や暴力によっても、神の救いの計画は壊されません。

 人生には、理解できない出来事があります。なぜこんなことが起こるのかと思うことがあります。しかしその中でも、神はなお働いておられます。

 今のこの時、私たちは何に頼って生きているでしょうか。自分の力でしょうか。それとも神への信頼でしょうか。

 剣か、神の計画か。

 主イエスは、神を信頼する道を歩まれました。そして今も、私たちをその道へと招いておられるのです。

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