聖書を開こう

この人を見よ(ヨハネ19:1-12)

放送日
2015年8月27日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: この人を見よ(ヨハネ19:1-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会に古くからある信仰告白に、使徒信条と言う、キリスト教信仰の内容を簡単に言い表した文章があります。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉に始り、父、子、聖霊の三位一体の神に対する信仰の告白、それから、教会とそこに連なる信徒についての確信と、短いながらも実によくまとめられた信仰の文章です。その短い文の中に、実在した人間の名前が二人登場してきます。一人はイエスの母マリア、もう一人は、ローマから派遣されたユダヤ総督、ポンテオ・ピラトの名前です。もし、ピラトがイエス・キリストの裁判にかかわらなかったとしたら、ピラトの名前は殆ど誰にも記憶される事はなかっただろうと思います。

 きょうお読みしようとしている個所には、ピラト自身がイエス・キリストには罪がないということを証ししている言葉が繰り返し出てきます。イエス・キリストに十字架刑の判決を下してしまったという責任の一端はピラトにもあるとは言え、しかし、同時に彼の口を通してイエス・キリストの潔白が語られていることにも十分な注意を払わなければならないと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 先週は、「イエスではなく、バラバを釈放せよ」と迫るユダヤ人指導者たちの激しい言葉を取り上げました。

 この言葉に対して、なおもイエスを赦そうと試みたピラトの行動がきょうの個所では取り上げられています。前回も少し触れましたが、ピラトが本気でイエスの釈放を願っているのかどうか、そのことは問題ではありません。むしろ、奇しくもイエスの潔白さを証ししているという結果が、ここでは福音書を読む読者に訴えかけてくる点なのです。人間の手の内にあるように見える裁判でありながら、実は神のくすしいご計画の中で、イエス・キリストの潔白さが証明され、しかも、罪のないそのお方が、ご自分でおっしゃられた通りに、十字架におかかりになって、ご自分の羊のために命を捨てられるのです。

 さて、ピラトがイエスを兵隊たちに渡して鞭打たせたのは、軽い懲らしめを加えた上で釈放してやろうと言うつもりだったのでしょう。ヨハネ福音書には記されてはいませんが、ルカ福音書では、「鞭で懲らしめて釈放しよう」というピラトの言葉が記されています。兵士たちはイエスを嘲るつもりで茨の冠をかぶらせ、紫の衣を着せて、ユダヤ人の王イエスへの侮辱的な態度を示します。ここでも、ローマ兵士の意図とは裏腹に、福音書の読者にはまことの王であるイエスの姿が描かれます。

 ピラトはローマ兵によってさんざん侮辱された姿のイエスをユダヤ人の前に連れ出して「見よ、この男だ」と言います。ピラトにしてみれば、こんなにも惨めな姿の王様をユダヤ人たちの前に連れ出せば、もはやこれ以上訴えを続けようと言う気もそがれてしまうだろうと思ったことでしょう。

 「見よ、この男だ」「この人を見よ」というピラトの言葉に従って、この人イエスを見るとき、そこにイエス・キリストの何を見るのか、それこそが、この福音書を読む一人一人に問われている事柄ではないでしょうか。

 ピラトはユダヤ人の王として訴えられたこの男の惨めな姿しか見ていなかったのでしょう。この男を指し示されたユダヤ人の指導者たちは、といえば、「この男こそ神の子を自称する冒涜者だ」と主張します。それで、結局、「見よ、この男だ」といったピラト自身が再びイエスのところへ行って、「お前はどこから来たのか」という根本的な質問を問わなければならなくなってしまいます。

 いったい、イエスとは何者で、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、この根本的な問題がピラトの口を通して問われています。しかし、実は、その同じ問いかけは、この福音書を読むわたしたち一人一人に問いかけられている問題でもあるのです。

 この福音書の読者には、最初からイエス・キリストが神のもとから遣わされたお方であることが、あかされています。そして、イエス・キリストの生涯を通して、繰り返しご自分が神のもとから遣わされた神の子であり、やがては神のもとへと帰るべきお方であることが語られます。

 イエスを裁いた世俗の裁判では、イエスがどこから来たのかと言うことは、それほど大きな問題ではなかったはずです。けれども、この裁判は奇しくも、一人一人に対して、イエスをただの惨めな姿の男ととるのか、はたまた、神の子を自称するだけに過ぎない冒涜的な男と取るのか、あるいは、イエスにこそ、まことの王であり、神から遣わされたお方である姿を見るのか、そのことを問うています。

 ところで、讃美歌の121番は日本人による作詞ですが、その歌詞はピラトの言う「この人を見よ」という言葉を受けて、こう歌います。

「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる。この人を見よ、この人こそ。人となりたる活ける神なれ」

 この讃美歌の歌詞こそ、キリスト者が見る、イエス・キリストの真の姿です。

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