山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:見えないところで始まる神の物語(出エジプト記1:1-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちは、何か大きなことが始まるときには、きっと「始まり」が見えると思っています。
新しい仕事が始まる。新しい学校生活が始まる。新しい町で暮らし始める。あるいは、歴史を変えるような出来事が起こる。
そういうときには、「ここから何かが始まった」と分かります。
ところが、聖書に記されている神の物語は、必ずしもそうではありません。
きょうからご一緒に読む出エジプト記も、実は、とても地味なところから始まります。
そこに描かれているのは、エジプトで苦しめられている一つの民族の姿です。
不思議なことに、この最初の場面では、神はほとんど登場しません。
けれども、聖書はここから、出エジプトという大きな救いの物語を始めます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記1章1節~14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
出エジプト記の1章は、いきなり新しい話を始めているわけではありません。
1節には、こうあります。
「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。」
ここで名前が一人ずつ挙げられています。
ルベン、シメオン、レビ、ユダ……。
そして5節には、
「ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。」
とあります。
これは、創世記の最後の出来事を受けています。
ヤコブの息子ヨセフは、兄たちによってエジプトに売られました。しかし神は、そのヨセフをエジプトで用いられました。
そして、大きな飢饉が起こったとき、ヨセフを通して家族は飢えから救われ、ヤコブとその家族はエジプトへ移り住むことになりました。
ですから、最初のころは、エジプトへ行くことは悪いことではありませんでした。
むしろ神の導きの中で、一つの家族が生き延びる道でした。
ところが、時代が変わります。
6節を見てみましょう。
「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだ」
とあります。
一つの世代が終わりました。
そして、8節です。
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、」
ここから、状況が大きく変わっていきます。
かつてエジプトを救ったヨセフのことを知らない王が支配するようになります。
そして、この王はイスラエルの人々を見て、こう言いました。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。」
そして、
「これ以上の増加を食い止めよう。」
と考えます。
なぜでしょうか。
イスラエル人が何か悪いことをしたからではありません。
歴史を学ぼうとしない王は、ただ彼らが増えていることを恐れました。
「もし戦争になったら、敵側について、我々と戦うかもしれない。」
まだ起こっていないことを恐れはじめます。
そして、その恐れから、イスラエルの人々を支配し始めます。
11節には、
「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」
とあります。
イスラエルの人々は、ファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設させられました。
粘土をこねる。れんがを焼く。農作業をする。
毎日の生活そのものが、苦しみになっていきます。
ところが、ここで聖書は、とても興味深いことを語っています。
12節です。
「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、」
とあります。
「しかし」です。
ファラオは、イスラエルの人々を苦しめて、数を減らそうとしました。
ところが、結果は逆でした。
苦しめれば苦しめるほど、イスラエルの人々は増え広がります。
ここに、この物語の大きなポイントがあります。
人間は、自分たちの計画によってイスラエルの人々を押さえつけようとしました。
けれども、神の約束は、その人間の計画によって止められることはありませんでした。
創世記の中で、神はアブラハム、イサク、ヤコブに、子孫を増やすことを約束されました。
その約束が、ここで静かに進んでいます。。
しかし、イスラエルの人々が、それをはっきり知っていたわけではありません。
いつの間にか「おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」と聖書は語ります。
とても普通の生活です。
そこには、まだモーセはいません。奇跡も起こっていません。
けれども、神の物語は、もう始まっています。
ここが、きょう、私たちが覚えておきたいポイントです。
神が見えないからといって、神の物語が止まっているわけではありません。
これは、私たちの人生にも当てはまります。
私たちは、神が働いてくださっているなら、何か目に見える変化が起こるはずだと思ってしまいます。
祈ったら、すぐに状況が変わる。教会で働いたら、すぐに人が増える。
そんなふうに考えてしまいます。
でも、そうならないことがあります。
祈っても、何も変わらない。努力しても、結果が見えない。
そんなとき、私たちは思ってしまいます。
「神は、本当に働いておられるのだろうか。」
そんな不安を感じることがあります。
しかし、出エジプト記1章は、私たちに一つのことを教えています。
神が見えないことと、神が働いておられないことは、同じではない。
イスラエルの人々は、エジプトで苦しんでいました。
自分たちの生活が、神の救いの物語につながっているとは、まだ分かりませんでした。
けれども、神の約束は、静かに進んでいました。
そして、もう一つ覚えたいことがあります。
神の働きは、必ずしも大きな出来事から始まるわけではありません。
出エジプト記1章で起こっていることを考えてみてください。
子どもが生まれる。家族が増える。一日一日を生きる。
それだけです。
けれども、その普通の日常が、神の大きな物語の舞台になっていました。
イスラエルの人々も、すぐに苦しみから解放されたわけではありません。
むしろ、このあと、さらに厳しい状況になっていきます。
それでも、神の約束は止まりませんでした。
出エジプト記の物語は、神が突然現れて、そこから物語を始めるところから始まったのではありません。
神が見えないように思えるところで、すでに神の物語は始まっています。
イスラエルの人々は、これから何が起こるのか知りません。
しかし、神はご自分の約束を忘れておられませんでした。
私たちにも、見えない時間があります。
何も進んでいないように思える時間があります。
けれども、その時間さえも、神の御手の中にあります。
きょうも、私たちの目には見えないところで、神の物語が進んでいます。
そのことを信じて、一日を歩んでいきたいと願います。




