聖書を開こう

疑いながら、それでも遣わされる(マタイによる福音書28:11-20)

放送日
2026年8月20日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:疑いながら、それでも遣わされる(マタイによる福音書28:11-20)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 まだ迷っている人に、大切な仕事を任せること、そんなことができるでしょうか。

 「この人は、まだ確信がないみたいだ。もう少し自信がついてから任せよう」。私たちは、きっとそう考えるに違いありません。

 ところが、きょう取り上げようとしている聖書の個所には、私たちの常識とは少し違う出来事が記されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書28章11節~20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 死者の中からよみがえられたイエス・キリストに最初に出会ったのは何人かの婦人たちでした。

 マタイによる福音書は、この日の出来事を別な側面からも描いています。

 イエスの葬られた墓を見張っていた番兵たちが、不都合な真実を隠ぺいするようにと指示を受けます。そして「弟子たちがイエスの遺体を盗んでいった」という噂を広めていきます。

 ここでマタイが描いているのは、復活をめぐる二つの証言です。

 一方には、「イエスは復活された」という婦人たちの証言があります。

 もう一方には、「弟子たちが死体を盗んだ」という証言があります。

 そして、この二つの話が広まる中で、弟子たちはガリラヤへ向かい、復活されたイエスに出会います。しかし、その中には、なお「疑う者」がいたとマタイ福音書は報告しています。

 それにもかかわらず、イエスはその弟子たちをお遣わしになります。

 きょうの個所の大切なところは、ここにあります。

 疑いがなくなってから遣わされたのではありません。疑いながら、それでも遣わされていきました。

 それでは順を追って見ていきましょう

 16節です。

 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」

 裏切り者のユダを失った弟子たちは、十一人になっていました。

 弟子たちは、イエスが指定された山に登り、そこで復活のイエスに出会います。

 17節には、こうあります。

 「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」

 ここは、どうしても見過ごせません。

 「ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」

 復活のイエスを礼拝している。しかし、疑っている。

 この二つが、同時に記されています。

 私たちは、信仰というものを、疑いがなくなることだと考えがちです。

 「本当に神がおられると確信できたら、信仰を持とう。」

 「祈りが必ず聞かれると分かったら、もっと熱心に祈ろう。」

 「迷いがなくなったら、神のために何かをしよう。」

 けれども、聖書がここで見せている弟子たちは、そうではありません。

 イエスにひれ伏しながら、疑っている。

 そして、驚くべきことに、イエスはその弟子たちを退けませんでした。

 「疑っている者は、ここから出て行きなさい」とは言われませんでした。

 むしろ、イエスはその弟子たちに近づいて、語りかけられます。

 18節から20節です。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 これは、いわゆる「大宣教命令」と呼ばれている言葉です。

 世界中の人々に福音を伝え、イエスの弟子をつくりなさい。洗礼を授け、イエスが教えたことを伝えなさい。

 とても大きな使命です。

 しかし、ここで考えてみてください。

 この使命を受けたのは、信仰が完璧な人たちではありませんでした。

 「疑う者もいた」と書かれている弟子たちです。

 イエスは、「疑いがなくなったら行きなさい」とは言われませんでした。

 「行きなさい」と言われたのです。

 なぜでしょうか。

 弟子たちの確信の強さが、使命の土台ではないからです。

 イエスは、その直前にこう言われました。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」

 弟子たちが強いから、行くのではありません。

 イエスがすべての権能を持っておられるからです。

 そして、最後にはこう約束されました。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 ここに、私たちが忘れてはならないことがあります。

 イエスが私たちに求めておられるのは、「疑いのない、完璧な信仰」ではありません。

 もちろん、疑いをそのままにしてよい、という意味ではありません。疑いがあるなら、聖書を開き、祈り、神に問いかけながら、信仰を深めていく必要があります。

 けれども、「まだ疑いがあるから、自分は神には用いられない」と考える必要はありません。

 私たちにも、いろいろな疑いがあります。

 祈っても何も変わらないように思えるときがあります。

 病気になったとき、「神様は本当に私と共にいてくださるのだろうか」と思うこともあります。

 大切な人を失ったとき、「なぜ神様は、このことを許されたのだろう」と思うこともあります。

 そして、信仰を持ちながらも揺らいでしまう自分自身に、がっかりすることもあります。

 そんな私たちに、今日の聖書は語ります。

 「疑いがあるから、あなたは失格なのではない。」

 イエスは、疑っていた弟子たちにも近づいてくださいました。そして、「行きなさい」と言われました。

 私たちが誰かに福音を伝えるときも、完璧な言葉が必要なのではありません。

 家族に優しく声をかけること。

 苦しんでいる人の話を聞くこと。

 「あなたのために祈っています」と伝えること。

 自分が受けた神の恵みを、ほんの一言でも誰かに話すこと。

そこから始まるのかもしれません。

 私たちは、「自分には信仰が足りない」と思うかもしれません。

 「自分には伝える力がない」と思うかもしれません。

 「こんな自分が、誰かをイエスのもとへ導くことなどできない」と思うかもしれません。

 しかし、イエスは「あなた自身の力でやりなさい」とは言われません。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。

 これは、私たちにとって大きな慰めです。

 私たちは、一人で遣わされるのではありません。

 なぜなら、私たちを遣わすお方が、私たちと共にいてくださるからです。

 きょう、もしあなたが信仰のことで迷っているなら、どうか覚えていてください。

 イエスは、疑いを抱えた弟子たちを見捨てませんでした。

 近づいてくださり、語りかけ、そして遣わされました。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 この約束を胸に、きょうも一歩を踏み出していきましょう。

 疑いながら、それでも遣わされていく。その私たちと、復活された主イエス・キリストは、きょうも共にいてくださいます。

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