聖書を開こう

倒れると知りながら、それでも共に食卓へ(マタイによる福音書26:26-35)

放送日
2026年5月28日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:倒れると知りながら、それでも共に食卓へ(マタイによる福音書26:26-35)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もし「この人は近いうちに自分から離れていく」「苦しい時には助けてくれない」と知っていたら、その人とどのように接するでしょうか。おそらく、多くの人は少し距離を置こうとするのではないでしょうか。

 けれども、今日取り上げる聖書の個所に書かれているイエス・キリストは、まったく逆の姿を見せておられます。

 食卓を囲んでいる弟子たちが、まもなく自分を見捨てて逃げることをイエスはご存じでした。それにもかかわらず、イエスは、彼らを食卓から締め出しませんでした。

 むしろ、パンを裂き、杯を差し出し、「共に食卓につく」ことを選ばれました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章26節~35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
 『わたしは羊飼いを打つ。
  すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 まず、場面の背景を簡単に見ておきましょう。

 この出来事は、「過越祭」の食事の最中に起こりました。過越祭とは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出された出来事を記念する大きな祭りです。

 この過越祭では、その時の救いを思い起こしながら、家族ごとに食卓を囲み、子羊を食べることが祭の重要な要素でした。

 ところが、この夜、イエスはその食事に新しい意味を与えられました。

 それは単なる「昔の救いの記念」ではなく、ご自身の十字架による新しい救いを示す食卓となりました。

 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え、裂いて弟子たちに与えられました。

 「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

 パンを裂くという行為は、やがて十字架で裂かれるご自身の体を示しています。

 さらに杯を取り、こう言われました。

 「皆、この杯から飲みなさい。これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

 その「多くの人」の中には、間違いなく、この後逃げ出す弟子たちも含まれていました。

 イエスは、忠実な者だけにパンと杯を与えたのではありません。最後まで失敗しない者にだけ与えたのでもありません。

 逃げることを知っている相手に、なおパンを差し出されるイエスでした。

 これは福音です。

 主の恵みは、立派な人へのご褒美ではありません。弱い人への贈り物です。

 倒れることを知っておられるのに、それでも主は招いてくださいます。主イエスは、弟子たちの弱さをご存じのまま、食卓へとお招きになりました。

 続いて30節には、こうあります。

 「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

 美しい場面です。最後の晩餐の終わりに、弟子たちは賛美を歌いました。

 けれども、その直後にイエスはこう告げられます。

 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」

 弟子たちは悪人ではありませんでした。むしろイエスを愛していました。

 それでも、恐れの前では崩れてしまいます。

 そして、イエスは、そのことさえ聖書に預言されていたとおっしゃいます。

 「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。」

 これはゼカリヤ書からの引用です。

 しかし、この場面で最も驚くべき言葉は、その次にあります。

 イエスはこうおっしゃいました。

 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 話は弟子たちの失敗で終わりません。

 イエスは、弟子たちが逃げることを知っておられました。それでも、その先を見ておられました。つまり主イエスは、十字架の向こうを見ておられます。

 しかも、「ガリラヤへ行く」と言われます。

 ガリラヤとは、弟子たちが最初に召された場所でした。イエスは、倒れた弟子たちをもう一度そこへ招こうとしておられます。

主の恵みは、失敗の後にも続きます。

 ところが、そのイエスの言葉を聞いたペトロは、こう言いました。

 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」

 ペトロらしい言葉です。ペトロは本気でした。イエスを愛していました。本当に最後まで従いたいと思っていました。

 しかし、ペトロには、決定的に見えていないものがありました。それは、自分自身の弱さです。

 イエスはおっしゃいます。

 「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう。」

 信仰生活で本当に大切なのは、「自分は強い」と思うことではありません。「自分は弱い」ということを知ることです。

 自分の弱さを知る人は、主にすがります。しかし、自分を過信する人は、自分の力で立とうとしてしまいます。

 そして、自分の力だけで立ち続けられる人はいません。

 私たちの信仰は揺れます。決意は崩れます。熱心さも続きません。

 けれども、主の愛は揺らぐことがありません。

 イエスは、私たちが倒れる可能性をご存じです。それでも、「来なさい」と招いてくださいます。

 この最後の晩餐は、「強い弟子たちの集まり」ではありませんでした。倒れていく人々の食卓でした。逃げる者、否認する者、恐れて沈黙する者たちの食卓です。

 そしてその中心に、なお愛し抜かれるイエスがおられます。

 聖餐式の食卓も同じです。

 そこは、自分の弱さを知り、それでも主の恵みに生かされたいと願う人が招かれる場所です。

 イエス・キリストは、倒れない人を探しておられるのではありません。倒れることをご存じのまま、それでも共に食卓につき、なお招き続けてくださるお方です。

その愛があるからこそ、私たちは何度でも立ち上がることができます。

 主イエスは今日も、弱い私たちに向かって言われます。

「取りなさい。食べなさい。」

 そこに、見捨てない神の愛があるのです。

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