リジョイス聖書日課 2015年10月

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2015年10月の聖書日課

サムエル下 9章

「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。」
サムエル記下 9章7節

友情を忘れない

サウルの子ヨナタンは、ダビデを「自分自身のように愛し」ました(サム上18章3節)。その友情は、ダビデが生命の危険にさらされたときにも崩れ去ることはありませんでした。むしろ、父サウルの命令に背いてでもヨナ…

マルコ 9章

そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
マルコによる福音書 9章36節~37節

イエスをお遣わしになった方

弟子たちはカファルナウムに向かう路上、だれがいちばん偉いかと議論し合いました。また、主イエスの受難の予告についても、弟子たちは別々のことを考えていました。そこで主イエスは一人の子供を彼らの真ん中に立…

マルコ 10章

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
マルコによる福音書 10章43節~44節

すべての人の僕になること

主イエスのこの言葉は、9章35~37節と同一の教えです。神の国には、世間一般の人が、偉くなるために追い求めるあり方とは正反対の原理があります。それは、主イエスのもとでは、すべての人に仕える「僕」こそが偉い…

箴言 26章

犬が自分の吐いたものに戻るように
愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。
彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。 箴言 26章11節~12節

自分を賢者と思い込んでいる者の愚かさ

「愚か者」は箴言に49回出てきます。賢い者は愚かさを知っています。主イエスも両者の対比を用いられました(マタ7章24~27節)。 愚か者でも、犬が自分の吐いたものに戻るのを見ると、強い嫌悪感を抱くでしょう。…

サムエル下 10章

ダビデは、「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ」と言って、使節を遣わして哀悼の意を表そうとした。
サムエル記下 10章2節

曲解せずに

ここに登場するハヌンの父ナハシュは、サムエル記上11章1~11節に出てくるアンモン人の王であると言われています。そこにはサウルが王としてイスラエルの人々から推挙されるきっかけとなった出来事が記されます。 …

サムエル下 11章

ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。
サムエル記下 11章27節

醜悪な本性

ダビデは全く欠陥のない聖人君子ではありません。 11章に記されるダビデの悪事は、他人の妻を奪うということだけではありません。バト・シェバとのよこしまな行為を隠そうと、ダビデは、その重大性を十分に自覚しな…

サムエル下 12章

主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。 サムエル記下 12章24節~25節

嘆きとその向こう

この章は1節から25節を一気に読まなければなりません。預言者ナタンの叱責、ダビデの悔い改めと嘆き、その子の死と激しい悲しみ、そして、ソロモンの誕生。 ナタンの指摘によってダビデは密かに処理したと思ってい…

サムエル下 13章

その後、こういうことがあった。
そして、アムノンは激しい憎しみを彼女に覚えた。その憎しみは、彼女を愛したその愛よりも激しかった。 サムエル記下 13章1節、15節

憎しみの果て

まるで小説の題材になるようなことが、ダビデの子どもたちの間で起きました。 ダビデ家の長男アムノンは異母兄妹タマルに抱いていた強い恋心を、凌辱という行為をもって暴発させます。しかも、その結果、恋心を激し…

マルコ 11章

そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」 マルコによる福音書 11章9節~10節

主イエスの後に従う群れ

「ホサナ」はヘブライ語で、「私たちをお救いください」という意味です。困難な状況からの助けを求める祈りの言葉として用いられます(詩118編25節)。 主イエスがエルサレムに入城されたとき、多くの人びとは一斉…

マルコ 12章

彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。 マルコによる福音書 12章16節~17節

神のものは神に返す

12章には11章27節から始まる主イエスと宗教指導者たちとのいろいろな問答が記されています。この一連の論争によって主イエスへの彼らの反感と憎しみが深まります。 ここで、宗教指導者たちはファリサイ派とヘロデ派…

詩編 107編

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
(詩編107:6,参照13,19,28節)

主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
(詩編107:8,15,21,31節) 詩編 107編6節、8節他

慈しみ深い主

詩編第5巻最初の107編は神賛美で始まります。 神は私たちの具体的なこの世の人生のただ中に来られ、苦しみから救ってくださいます。このことを詩人は四人の異なる人生を登場させて詠います。荒れ野や砂漠で迷う流浪…

サムエル下 14章

「わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます。」 サムエル記下 14章14節

ゆるされるべきもの

兄弟を殺害したアブサロムはその罪を精算するかのように外国に逃亡します。しかし、ダビデはアブサロムを愛しており、その帰国を願っていました。しかし、逡巡もしていました。アブサロムの罪は、カインによるアベ…

サムエル下 15章

「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。」 サムエル記下 15章25節

本当の力

再びダビデに会うことがゆるされたアブサロムでしたが、やがてそのダビデの王位を狙うようになります。放っておいても彼は王となる器量があった人かもしれません。しかし、ダビデから王位を奪うことで、王になろう…

サムエル下 16章

「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 サムエル記下 16章12節

苦悩の中で

アブサロムがエルサレムで勝利を宣言している間、ダビデは逃亡を余儀なくされます。その時、ダビデは、若いころ、サウル王に命を狙われて荒れ野を逃亡した経験を思い出していたかもしれません。 しかし、今回のほう…

サムエル下 17章

アブサロムも、どのイスラエル人も、アルキ人フシャイの提案がアヒトフェルの提案にまさると思った。アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである。 サムエル記下 17章14節

人間の思いを超えて

フシャイがエルサレムに戻った目的はアヒトフェルの計略を阻止するためでした。ダビデがフシャイに託した計画は見事に功を奏するようになってきます。 逃亡したダビデをどうするか。アヒトフェルの提案はダビデをす…

マルコ 13章

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」 マルコによる福音書 13章32節~33節

その時に備えなさい

13章で主イエスは、エルサレム神殿の崩壊について預言され、ついに世の終末についての預言をされます。ペトロとヤコブ、ヨハネ、そしてアンデレが終末の徴について質問すると、主イエスはその徴について答えてくだ…

マルコ 14章

イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 マルコによる福音書 14章41節~42節

受難に向かって行かれるイエス

主イエスを殺そうとするユダヤ宗教指導者たちの計略は着々と進んでいきました。 14章は、十字架につけられる金曜日までの出来事を記しています。そこには、イスカリオテのユダの裏切り、イエスの逮捕、最高法院での…

詩編 108編

神よ、わたしの心は確かです。
わたしは賛美の歌をうたいます。
「わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。」 詩編 108編2節~3節

曙を呼び覚ます

まだ暗い明け方、ベッドの中で目覚めます。あるすばらしいアイディアがひらめき、もう寝てはいられません。さんざん苦しんできた問題に、解決の道がありそうだと希望がわいてきた。詩人はそのような状況下だったの…

サムエル下 18章

兵士は言った。「出陣なさってはいけません。…しかしあなたは我々の1万人にも等しい方です。」 サムエル記下 18章3節

悲哀と憐憫

アブサロムは戦闘中、樫の木に頭がひっかかり、宙づりになったまま、ダビデの将軍ヨアブに殺害され、あっけなく死んでしまいます。アブサロムの反乱はこうして失敗し、鎮圧されることになります。 ダビデはこの戦闘…

サムエル下 19章

ダビデは身を震わせ…言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」 サムエル記下 19章1節

歴史の進展

アブサロムとの戦いが終わり、その後のさまざまな処置が記されます。勝利した者、敗北した者、それぞれの言動が記録されています。勝者のような姿ではないダビデ、それを叱責する将軍ヨアブ、アブサロム側に立った…

サムエル下 20章

「わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。」 サムエル記下 20章19節

平和と葛藤

北の10部族が構成するイスラエルと南部で力を持つユダとの葛藤は長く続いてきました。アブサロムの反乱も北のイスラエルの支持があったからです(15章10節)。 ここに記されるシェバの反逆も、ダビデ王の統一にもか…

サムエル下 21章

ダビデの世に、3年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」 サムエル記下 21章1節

神のまなざし

ギブオン人はヨシュアの時代からイスラエルの民と共存してきました(ヨシュ9、10章)。ギブオン人は、ヨシュアに対し賢く立ちまわり、欺くかたちで平和協定を結ぶ約束を取りつけたのでした。 時代が下って、聖書に…

マルコ 15章

また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 マルコによる福音書 15章19節~20節

侮辱される救い主イエス

神から命じられたことに違犯したアダムの罪によって、人々は死に支配されるようになりました(ロマ5章14節)。しかし、神は第二のアダムである「キリストによってすべての人が生かされる」道を開いてくださいました…

マルコ 16章

その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 マルコによる福音書 16章12節~13節

主の復活を信じない弟子たち

私たちは、主イエスの復活が真実であることを心から信じます。それでは復活の意味とは何でしょうか。まず、主イエスは「力ある神の子と定められた」ことです(ロマ1章4節)。第二に、聖書の預言が成就されたことを…

詩編 109編

彼の生涯は短くされ
地位は他人に取り上げられ
子らはみなしごとなり
妻はやもめとなるがよい。 詩編 109編8節~9節

復讐を求める心に救いを

詩人は、相手の不幸を公然と祈っています。私たちは主イエスの「敵を愛せよ」という教え、パウロの「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という教えを知っていますから、この「復讐の詩編」を読むと戸惑ってし…

サムエル下 22章

主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え
不法から救ってくださる方。 サムエル記下 22章2節~3節

詩の心

サムエル記下22章には、感謝の歌が祈りの心でうたわれています。感謝を祈ることの大切さを覚えます。 ダビデはすぐれた詩人でした。ここだけではなく、詩編にはダビデの作とされるものが多く記されています。 私た…

サムエル下 23章

主の霊はわたしのうちに語り
主の言葉はわたしの舌の上にある。 サムエル記下 23章2節

神の言葉とともに

ダビデはサムエルから油を注がれた時以来主の霊が降るようになりました(サム上16章13節)。 彼は預言者ではありませんが、しかし、誰よりも主の言葉を重んじた人物であったことは確実です。時に主の託宣を求めてい…

サムエル下 24章

「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。」 サムエル記下 24章10節

過失からの回復

ダビデは人口調査をします。歴史を見ても、国家が安定するとき、あるいは安定を求めるとき、権力者は国家の力を調べます。人口調査は課税のため、兵士の徴募のために必要とされます。ダビデの国も地上の国家である…

ガラテヤ 1章

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 ガラテヤの信徒への手紙 1章10節

キリストの僕

「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか」とパウロが言っているのは、人からの評価を受けたいという思いが、もう今ではパウロにはないからです。 ここで、パウロは昔の自分と対比する中で「今では」と語…

ガラテヤ 2章

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 ガラテヤの信徒への手紙 2章20節

わたしの主イエス

「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」。これは、他者に教理を教えている言葉ではありません。キリストと共に死んでキリストと共に生きる人生に造り変えられたパウロが神に献げている信仰告白です…

ガラテヤ 3章

あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あなたがたに、“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 ガラテヤの信徒への手紙 3章3節、5節

“霊”によって歩み続ける

5節の「授け」「行われる」という言葉は、現在形です。ガラテヤの教会で奇跡が実際に行われていたのでしょう。その前提でお話しします。 ガラテヤ教会の人びとは福音を聞いて、福音を信じたので、ただそのことによ…