主の日は私たちにとって何か | アモス書 5章

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アモス書 5章

災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 アモス書 5章18節

主の日は私たちにとって何か

きょうの聖句では、主の日は神の裁きの日、罪に対する審判が下される恐るべき日です。それは闇であって光ではないと言われます。

旧約時代、主の民であるイスラエルは、主が自分たちの神なのだから、必ず敵から守っていただけると信じていました。しかし、それに安住して、主に服従せず、自分の生き方を顧みることもせず、心が主から離れてしまっていました。この民に対して、主は大変厳しく臨まれました。

イスラエルの人びとは、ついに主が自分たちを敵から救ってくださる「主の日」が来ることを期待していました。しかし、主の日は裁きの日、闇がもたらされる日となることをアモスは語ったのでした。

主イエスは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。この主イエスによる罪の赦しを信じる私たちにとって、主の日はやがて完成される救いを待ち望む喜びの日です。

今日、主の日は裁きの日でなく、主キリストの復活と、救いの恵みに感謝して礼拝を献げる喜ばしい日です。心からの感謝をもって礼拝しましょう。主イエスにあって主の日を待ち望む者は幸いです。

久保田 証一(尾張旭伝道所)