リジョイス聖書日課 2016年6月

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2016年6月の聖書日課

ヨブ 37章

ヨブよ、耳を傾け
神の驚くべき御業について、よく考えよ。 ヨブ記 37章14節

神の驚くべき御業

エリフは、自然を通して示される神の御声のとどろきとその業をヨブに示します。激しい稲妻を通して神の御声はとどろき、神が命じられるままに雪は降り積もり、雨は激しく降ります。 その圧倒的な神の御業を前に、彼…

ヨハネ 5章

さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、またもう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 ヨハネによる福音書 5章5節~6節

良くなりたいか

主イエスは不思議なことをおっしゃいました。38年も重い病で苦しんでいた人に向かって、「良くなりたいか」と問いかけられたのです。誰に言われるまでもなく、良くなりたいに決まっています。良くなりたいからこそ…

ヨハネ 6章

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」 ヨハネによる福音書 6章35節、37節

わたしが命のパンである

この世が与えるパンは、確かに、その日の命を支え、美味しいという満足と喜びを与えてくれるでしょう。また、パンだけではなく、この世のさまざまな楽しみが、私たちの生きる命を豊かにしてくれるでしょう。 しかし…

ヨハネ 7章

そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」 ヨハネによる福音書 7章6節~7節

キリストの時を信じる

生きることは、時を刻むことでもあります。私たちはどういう時を刻んで生きているのでしょうか。ある人は、「わたしの時間は、わたしのものだから、どう使おうが構わない」と言うでしょう。またある人は、「わたし…

詩編 139編

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 詩編 139編1節~2節

神の配慮の中を歩む幸い

神に従って歩む人生は、自由がなく窮屈に感じられるということはないでしょうか。若いころ、わたしはそのように感じていました。それは、神が、わたしを究めておられる、わたしのすべてを知っていてくださる、とい…

ヨブ 38章

これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 ヨブ記 38章2節~3節

神からの答え

神はエリフの言葉に続いて、長い沈黙の後に語り出されました。ヨブの問いは「自分は無実であるのに、何故このように苦しめられるのか、神の正義はどこにあるのか」というものでした。神は、この問いに直接的には答…

ヨブ 39章

誰が野生のろばに自由を与え
野ろばを解き放ってやったのか。
その住みかとして荒れ地を与え
ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。 ヨブ記 39章5節~6節

野の獣を養っておられる神

前章から挙げられている獅子や烏、鹿、野生のろば、野牛、駝鳥、野の獣、鷹や鷲は、人間が飼い馴らすことが難しい生き物です。馬は身近な動物ですが、だからこそ人は馬の力強さを知っています。 神は語られます。「…

ヨブ 40章

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責めたてる者よ、答えるがよい。 ヨブ記 40章2節

主の御手の中で

神は、ヨブに言葉を促し続けられます。「神を責めたてる者よ、答えるがよい」と。その神の迫力に、ヨブはたじろぎを見せます。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう」(4節)…

ヨハネ 8章

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 ヨハネによる福音書 8章11節

赦されて生きる

生きていくうえで大切なことがあります。それは、自分がいったいどういう人間であるのかを知ることです。それも、たまに思い起こすのではなく、日々、主からいただくみ言葉によって、自分を位置づけ、今日を生きて…

ヨハネ 9章

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 ヨハネによる福音書 9章3節

神の業が現れるため

今の自分を受け入れることができなくなるとき、私たちは、その原因がいったい何であるのかを追求しようとします。自分がこうなったのは、「あの人のせいだ」と言ってみたり、「過去にあんな不幸な出来事が起こった…

ヨハネ 10章

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 ヨハネによる福音書 10章10節~11節、14節

主イエスは良い羊飼い

聖書は、神を「羊飼い」に、人間を「羊」に譬えて語ることがよくあります。(詩23編など)。羊は、たいへん弱い動物です。一人で自分の身を守ることもできませんし、一人で餌にありつくこともできません。羊飼いが…

詩編 140編

主にわたしは申します。
「あなたはわたしの神」と。
主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、わたしの神よ、救いの力よ
わたしが武器を執る日
先頭に立ってわたしを守ってください。 詩編 140編7節~8節

迫害や命の危機の中でも

詩人は、蛇のような鋭い舌を持ち、蝮の毒を唇に含んでいるような敵と遭遇しました。彼らは言葉の罠を仕掛け、行く道に落とし穴を掘っています(4~6節)。 詩人は、その中で神に祈り訴えます。「主よ、嘆き祈るわた…

ヨブ 41章

彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。
いるなら、わたしの前に立て。
あえてわたしの前に立つ者があれば
その者には褒美を与えよう。
天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。 ヨブ記 41章2節~3節

主権者である神の近づき

ヨブ記では40章前半に陸の怪物ベヘモットが語られ、人間では制御できないものの象徴としてレビヤタンが語られています。ベヘモットとレビヤタンを通して、ヨブには理解できない霊的な世界の神秘がヨブの前に開かれ…

ヨブ 42章

あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。 ヨブ記 42章2節、5節~6節

ヨブの悔い改め

ヨブは神の言葉により、世界の壮大さとその世界をつくられた神の果てしなさとに触れました。ヨブはその言葉のもとに平伏します。すると神は、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(4節)とヨ…

歴代上 1章

アダム、セト、エノシュ、 歴代誌上 1章1節

すべての人はアダムから

歴代誌上の冒頭には、アダムからの系図のリストが延々と記されています。さながら昔々の墓地に来て墓標を見ている思いになってしまいます。彼らは、この世に生を受け、激動の人生を駆け巡りやがては死んで、これら…

ヨハネ 11章

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 ヨハネによる福音書 11章25節~26節

死んでも生きる

私たちは、涙ながらに神に訴えることが、時にあるのではないでしょうか。主よ、あなたがいてくだされば、こんなことにはならなかったのに。なぜここにいてくださらなかったのですか、と(21節、32節)。 マルタとマ…

ヨハネ 12章

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 ヨハネによる福音書 12章24節~25節

一粒の麦の恵み

今のわたしがあるのは、主イエス・キリストのおかげです。キリストに出会うまでのわたしは、自己中心的なまでに、自分を愛して生きてきました。自分さえよければ、他のことはどうでもよかったのです。また、聖書の…

ヨハネ 13章

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 ヨハネによる福音書 13章1節

愛の主イエス

過越祭はイスラエルの救いを一番具体的に、印象的に表すものです。イスラエルは過ぎ越しの小羊の血によって神の裁きの死を免れたからです。過ぎ越しは、はるかに主イエスの十字架の死を指さしています。 それを主イ…

詩編 141編

わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。
悪を行う者らと共にあなたに逆らって
悪事を重ねることのありませんように。
彼らの与える好餌にいざなわれませんように。 詩編 141編4節

わたしの心を守ってください

詩人はいま激しい試練に直面しています。逆らう者がわなをしかけ、彼を落とそうとねらっているからです。彼は主の速やかな助けを祈り求めています。 しかし、そのような切迫した状況のなかでも、詩人の思いは冷静に…

歴代上 2章

ユダの子は皆で5人であった。 歴代誌上 2章4節

ユダの子孫からの祝福

この章にはイスラエル十二部族が最初に記されていますが、その後即座に北イスラエル王国ではなく、南の王国ユダにスポット・ライトをあてています。すなわちユダの系統の中に将来の希望の光を灯しているのです。ユ…

歴代上 3章

ヘブロンで生まれたダビデの息子は次のとおりである。 歴代誌上 3章1節

ダビデの子孫からの祝福

この章にはダビデの子らの名が記されています。先ず、ヘブロンで王位についた時の子たちの名が記されています。続いてエルサレムで王位を頂いた時のたくさんの子たちが続いております。人も羨むダビデ大王の子とし…

歴代上 4章

母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。 歴代誌上 4章9節

苦しみの彼方に…

2章に続いて、ここではユダのもう一つの系図が記されています。何と言っても注目されるべき人は9節に出てくるヤベツでしょう。この祈りはヤベツの祈りというよりも、ヤベツに与えられた祈り、教えられた祈りと言え…

ヨハネ 14章

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 ヨハネによる福音書 14章6節

御国への道

主イエスは御自身を「道である」と言われます。天の御国に行くための道筋であるとともに、方法・手だてをも意味しています。このお方なしではどうしても「そこ」に行くことはできません。 「真理」は人が知らなけれ…

ヨハネ 15章

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ヨハネによる福音書 15章5節

ぶどうの木

主イエスと私たちとの関係が、ぶどうの木と枝の関係に譬えられています。 幹を離れた枝は、実りどころか生きていくこともできません。そのように、主イエスこそ私たちの命の源です。枝が幹に支えられているように私…

ヨハネ 16章

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネによる福音書 16章33節

世に勝っている

きょうの御言葉は14章から続いてきた主イエスの最後の説教、その結びの言葉です。主イエスがお話しされた、その目的は、「わたしによって平和を得るため」でした。そうです。その平和を味わうことこそ、私たちの人…

詩編 142編

主よ、あなたに向かって叫び、申します
「あなたはわたしの避けどころ
命あるものの地で
わたしの分となってくださる方」と。 詩編 142編6節

わたしの避けどころ、わたしの分

詩人は今、迫害者に追われています。安全な逃れ場はなく、また彼に同情し助けの手を差し伸べてくれる友もまったくいません。激しい孤独感にさいなまれています(4、5節)。 しかし詩人の心は決して絶望しません。地…

歴代上 5章

彼の兄弟の中で最も勢力があったのはユダで、指導者もその子孫から出たが、長子の権利を得たのはヨセフである。 歴代誌上 5章2節

主の憐れみによる選び

5章には、ヨルダン川東岸ギレアド地方に嗣業の地を得た部族の系図と、大祭司とされたアロンの子らの系図が記されています。 父祖イスラエル(=ヤコブ)の長男ルベンは、母ラケルの死後、その悲しみがまだ癒えない…

歴代上 6章

ソロモンがエルサレムに主の神殿を築くまで、彼らは幕屋、すなわち臨在の幕屋の前で詠唱者として仕え、その規則に従って任務に就いた。 歴代誌上 6章17節

主への賛美の尊さ

神の箱が幕屋に安置されたとき以来、ダビデによって神殿での詠唱者としてヘマンが任務に召されます。彼は「歌をうたう者」とか「歌い手」とも呼ばれています。この呼び名での表現で歴史の中に刻まれた人物でした。…

歴代上 7章

彼は名をベリアと付けた。その家が災いのさなかに
(ベラア)あったからである。…ラダン、アミフド、エリシャマ、ノン、ヨシュアと続く。 歴代誌上 7章23節~27節

その家が災いのさなかにも

マナセとエフライムは、神の憐れみによるヨセフの子どもです。その子孫からモーセの後継者であるヌンの子ヨシュアが生まれます。系図には、ヨシュアの先祖ベリアが登場します。ベリアという名は、その父エフライム…

ヨハネ 17章

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」 ヨハネによる福音書 17章1節

栄光の時

主イエスは「時が来ました」と言われます。十字架の時です。罪人を救うために主イエスを十字架につけるという神の救いのご計画の完成する時です。この日まで主イエスは「わたしの時は、まだ来ていません」と、たび…