聖書を開こう

十字架の道を歩む決意(マタイによる福音書20:17-19)

放送日
2025年11月13日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:十字架の道を歩む決意(マタイによる福音書20:17-19)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人生には、どうしても避けて通れない道があります。

 できることなら背を向けて逃げ出したい、そんな瞬間が、誰にでもあるのではないでしょうか。

 病の宣告、愛する人との別れ、努力が報われない現実。人間の力ではどうにもならない苦しみの前で、私たちは立ち尽くします。

 聖書の中にも、まさにそのような道を歩まれた方がいます。それが、イエス・キリストです。

 イエスはエルサレムへと向かう途中で、ご自分が捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられることを弟子たちに語りました。

 けれども、イエスはその道を恐れて退くことはありませんでした。むしろ、神の御心に従って、確かな足取りで歩み続けたのです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書20章17節~19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 イエスが語られたこの十字架への予告を聞いたとき、弟子たちはどのように受け止めたでしょうか。彼らはイエスを「メシア」と信じていました。しかし、そのメシアが敵に捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまう。そのような言葉は到底受け入れられませんでした。

 弟子たちは、イエスがエルサレムに入れば、いよいよイスラエルを回復し、栄光の王座につくのだと期待していました。そのために、二人の弟子が「わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出る場面もあります(マルコ10:37)。

 けれどもイエスは、その願いを静かに退け、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問いかけられました。イエスが歩もうとしておられたのは、栄光の道ではなく、苦しみと屈辱の道でした。

 十字架に向かうというのは、イエスにとっても決してたやすいことではありませんでした。ゲツセマネの園で祈られたとき、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と苦しみの中で祈られたことを私たちは知っています。

 それでもなお、イエスは「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈り、神の御心に従われました。その決意が、今日お読みしたこの短い予告の言葉の中に凝縮されています。

 引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる。その一つひとつを、イエスはすでに知っておられました。それでもエルサレムへと歩みを止めませんでした。ここに、救い主の深い愛と使命への従順が表れています。

 私たちはしばしば、信仰の道を歩み時でさえも「苦しみのない祝福」だけを望んでしまいます。しかし、イエスが歩まれた道は、痛みと犠牲の道でした。その道こそが、神の愛をこの世に示す唯一の道でした。

 イエスが十字架にかけられたのは、無力だからではありません。むしろ、すべての力を持ちながら、それを私たちの救いのために明け渡されたからです。愛のゆえに、自らの命を差し出されました。

 信仰とは、このイエスの決意と愛を自分のものとして受け取ることです。そして、その愛に応えるようにして、自分もまた小さな十字架を担って生きることです。たとえ不当な苦しみに遭うときでも、神がその先に復活と希望を備えておられることを信じて歩むこと……それが「十字架の道を歩む決意」です。

 私たちは、十字架を見上げるとき、ただ悲劇を思い起こすのではありません。そこには、罪と死に勝利した神の愛が輝いています。イエスの歩みは、敗北ではなく勝利への道でした。人々の憎しみと裏切りのただ中で、神の愛が決して消えることはないと示されたのです。

 ヨハネはその手紙の中で、こう記しています。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

 私たちが生きるのは、神の独り子イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったからです。

 そして、その愛が今も私たち一人ひとりに届いています。どんなに罪深く、弱くても、イエスは私たちを見捨てず、共に歩もうとしてくださいます。

 ですから、私たちが人生の困難に直面するとき、恐れることはありません。イエスがすでにその道を先に歩まれ、十字架を越えて復活の朝を迎えられたからです。たとえ暗闇の中を歩いているようでも、その先に光があると信じて進むことができます。

 イエスが「三日目に復活する」と語られたことを、弟子たちはその時には理解できませんでした。しかし、復活の日、弟子たちはその約束の確かさを知りました。そしてその瞬間から、弟子たち自身も命をかけて福音を伝える者へと変えられていきました。

 恐れに支配されていた弟子たちが、迫害にも屈せず、喜びをもって証しを続けたのは、復活の主に出会ったからです。イエスの決意が弟子たちの心を貫き、弟子たち自身の決意へと変えられたからです。

 私たちの人生にも、それぞれの「エルサレムへの道」があります。避けたい現実、痛みを伴う課題、向き合いたくない問題……。しかし、その道をイエスが共に歩んでくださると信じるとき、私たちは恐れではなく希望をもって進むことができます。

 信仰は、困難を避ける力ではなく、困難の中で神を信頼する力を与えてくれます。

 「十字架の道を歩む決意」とは、単に覚悟の強さではなく、イエスに従う愛の応答です。自分の力ではなく、主の愛に支えられて進むことです。

 イエスが最後まで神の御心に従われたように、私たちも日々の小さな選択の中で、「神の御心がなりますように」と祈りながら歩みたいと思います。

 その歩みの先には、十字架を越えた復活の喜びが待っています。イエスが示されたこの道こそ、命へと続く道です。

 今日、あなたの前にも、エルサレムへ向かう道があります。そこには痛みもあるかもしれません。しかし、主が先にその道を歩まれたことを思い出してください。主はあなたの苦しみを知り、共に歩んでくださるお方です。

 どうか、主の愛に応えて、信仰の一歩を踏み出してください。その道の先に、永遠の命の栄光が待っています。

 愛には恐れがありません(1ヨハネ4:18)。イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです(ローマ8:39)。

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