山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:あなたがしたことは、わたしにしたこと(マタイによる福音書25:31-46)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちは日々、さまざまな「評価」の中に生きています。最近ではSNSの「いいね」の数やフォロワー数など、目に見える数字で自分の価値が測られるような感覚に陥ることも少なくありません。
しかし、ふと立ち止まって考えてみると、私たちの人生を最後に評価するのは、一体誰なのでしょうか。そして、その基準は何なのでしょうか。
きょう取り上げようとしている聖書の箇所は、その問いに真正面から答えるものです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書25章31節~46節までです。新共同訳聖書でおみいたします。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
今までマタイによる福音書24章から25章にかけて、イエス・キリストが語られた終わりの時についての教えを学んできました。きょうの箇所はその締めくくりとして語られています。
「人の子が栄光に輝いて来るとき」と語られていますが、これはイエスが再び来られる終わり時を指しています。そのとき、すべての人々が御前に集められ、決定的な区別がなされます。
まず、右に置かれた人々に対して、王はこう語ります。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」
その理由として挙げられているのは、驚くほど具体的で、日常的な行いです。
「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたから」というものです。
ここで注目したいのは、これらの行いが、特別に目立つものではないということです。奇跡を行ったわけでも、大きな事業を成し遂げたわけでもありません。ただ、目の前にいる困っている人に手を差し伸べた、それだけのことです。
しかも、彼ら自身はそれを意識していません。自分たちの行いを誇るどころか、覚えてすらいません。
それに対して王は答えます。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
ここに、この箇所の最も大切な真理があります。キリストは、「最も小さい者」とご自身を重ねておられます。社会の中で見過ごされがちな人、弱さを抱えている人、助けを必要としている人、そのような人に対してなされたことを、キリストは「わたしにしてくれたこと」と受け止めておられます。
一方で、左に置かれた人々に対しては、全く逆の言葉が語られます。「呪われた者ども、わたしから離れ去れ」と言われてしまいます。その理由もまた、同じように具体的です。しかし今度は、「しなかったこと」が問題にされています。
興味深いのは、彼らもまた「気づいていなかった」という点です。つまり、悪意をもって拒絶したというよりも、無関心のうちに見過ごしてしまったということです。
ここから分かるのは、問題は単に悪いことをしたかどうかではない、ということです。むしろ、「なすべき善をしなかった」ということが問われています。
ここまで読むと、「結局、行いによって救われるのか」と感じるかもしれません。しかし、聖書全体が教えているのは、救いは神の恵みによるということです。では、この箇所は何を教えているのでしょうか。
それは、行いが救いの原因であるということではなく、救われた者の内側にある信仰が、必ず行いとして現れる、という真理です。本当にキリストに属しているなら、その人の生き方の中に、他者への愛として表れてきます。
言い換えれば、信仰は目に見えませんが、行いはそれを映し出す鏡のようなものです。
では、この御言葉は、現代を生きる私たちに何を問いかけているのでしょうか。
まず第一に、私たちは「小さい者」に対するまなざしを問われています。私たちの周りには、さまざまな形で助けを必要としている人がいます。しかし忙しさの中で、あるいは関わることを避けたい気持ちから、それらを見過ごしてしまうことがあるのではないでしょうか。
目の前の一人の人を、ただの他人としてではなく、キリストと結びついた存在として見ることが求められています。
第二に、気づかれない行いの価値です。私たちはしばしば、人に認められることを求めます。しかしここで評価されているのは、誰にも気づかれなかったような小さな親切です。そしてそれを神ご自身が見ておられます。
第三に、キリストとの出会いの場所が問われています。私たちは教会の中でキリストに出会うことを大切にします。しかしそれだけではありません。日常生活の中で、他者との関わりの中で、キリストに出会います。
「この人に何ができるか」と考えるだけでなく、「この人の中にキリストがおられる」と見る視点が与えられるとき、私たちの生き方は大きく変えられていくのです。









