聖書を開こう

遠回りに見える神の導き(出エジプト2:11-25)

放送日
2026年9月17日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:遠回りに見える神の導き(出エジプト2:11-25)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「どうして、こんなところに来てしまったんだろう。」

 人生の中で、そんなふうに思うことはないでしょうか。

 自分では一生懸命に歩いてきたつもりなのに、気がついてみると、目指していた場所とは全く違うところにいる。予定していた道から外れてしまった。そんな経験です。

 今日登場するモーセも、まさにそのような状況にありました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記2章11節~25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。
 さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。娘たちが父レウエルのところに帰ると、父は、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と尋ねた。彼女たちは言った。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」
 モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。
 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。

 モーセは、エジプトの王宮で育ちました。時が経ち、やがてモーセは大人になります。

 「成人した」という言葉は、単に年齢を重ねただけではありません。自分のアイデンティティを確立したことを示唆しています。

 モーセはエジプトの贅沢の中にどっぷりと浸かって、自分のルーツを忘れて生きることもできたはずです。しかし、「同胞(ヘブライ人)」という言葉を忘れませんでした。

 ある日のこと、イスラエルの人々が苦しめられているのを目撃します。

 それは日常茶飯事の光景だったのかもしれません。

しかし、当事者意識に目覚めたモーセにとって、それは見過ごすことのできない不正でした。

 モーセは同胞を助けようとします。

 モーセの動機は、間違いなく「正義」でした。弱い者を守りたい、理不尽な暴力を止めたいという、純粋で熱い思いです。

 しかし、その方法は間違っていました。エジプト人を殺してしまいます。

 第一に、それは衝動的でした。モーセは怒りに任せて手を下しました。

 第二に、それは自分の力に頼った解決でした。彼は「左右を見回し」ました。人に見られていないかを確認します。神は見ておられるのにです。

 そして第三に、決定的な欠落があります。ここには「神への祈り」や「神への問い」が一切記されていません。

 こうして、自分の腕力と判断で事態を解決しようとしました。しかも、その表現方法は、モーセが憎んだはずの暴力そのものでした。

 この事件はファラオに知られ、命を狙われることになりました。

 そこでモーセは、エジプトを逃げ出します。王宮育ちのモーセが、今や逃亡者の身になり下がってしまいます。

 行き着いたのは、ミディアンという地方でした。

 王宮から荒れ野へ。

 人の目から見れば、これは「遠回り」としか思えない道です。

 ところが、今日の聖書箇所を読むと、この遠回りに見える時間も、神の御手の中にあったことが分かります。

 ミディアンに着いたモーセは、井戸のそばに座っていました。そこへ、ミディアンの祭司レウエルの七人の娘たちが、水をくみにやって来ます。しかし、羊飼いの男たちが娘たちを追い払いました。

 その時、モーセは立ち上がり、娘たちを助け、羊の群れに水を飲ませてやりました。

 ここで興味深いのは、モーセがエジプトにいた時と同じように、ここでも弱い立場の人を助けることです。

 エジプトでは、力によって問題を解決しようとして失敗しました。しかしミディアンでは、誰にも知られない一人の逃亡者として、目の前の人を助けています。

 そして、この出来事をきっかけに、モーセはその土地にとどまり、ツィポラと結婚し、男の子が生まれました。

 その子をゲルショムと名付けました。

 モーセは、その名前についてこう言っています。

 「わたしは異国にいるゲール(寄留者)だ。」

 この言葉からは、モーセの寂しさが伝わってきます。

 自分はどこに属しているのか。これからどうなるのか。モーセには分かりませんでした。

 しかし、聖書を読み進めると分かります。このミディアンでの年月は、神にとって無駄な時間ではありませんでした。

 私たちにも、「こんなはずではなかった」と思う時があります。

 失敗してしまった時。

 計画どおりに物事が進まない時。

 思いがけず、遠いところまで来てしまったように感じる時があります。

 そんな時、私たちは「神の導きから外れてしまったのではないか」と考えてしまうことがあります。

 けれども、モーセの場合、本人には「遠回り」にしか見えなかったミディアンでの年月が、後に神がモーセを用いるための時間となっていきました。

 もちろん、私たちは自分の経験について、後になって必ずその意味を説明できるわけではありません。

 だから、「この苦しみには、こういう意味があります」と簡単に言うことはできません。

 ただ、一つ確かなことがあります。

 先が見えない時にも、神は私たちを見失ってはおられない、ということです。

 モーセがミディアンで「寄留者」として過ごしていた間にも、エジプトではイスラエルの人々が苦しみ続けていました。

 そして23節には、こうあります。

 「労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」

 人には何も進んでいないように見える時にも、神の救いの物語は止まっていません。

 モーセがエジプトで失敗しようが、荒野で隠れていようが、神の救いの計画は一秒たりとも止まっていませんでした。イスラエルの救いの主役は、勇気あるモーセではなく、叫びを聞かれる神ご自身でした。

 もし今、あなたが「自分は遠回りをしている」と感じているなら、その歩みを神に委ねてみてください。

 先の道が見えなくても、神は見ておられます。

 遠回りに見える道の中にも、神の導きがあるのです。

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