聖書を開こう

恐れるべき方は誰なのか(出エジプト1:15-22)

放送日
2026年9月3日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:恐れるべき方は誰なのか(出エジプト1:15-22)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何かを恐れた経験はありますか。

 病気を恐れる。将来を恐れる。人から嫌われることを恐れる。

 そして私たちは、気がつかないうちに、人の目を恐れて生きていることがあります。

 恐れは、私たちの行動を左右します。

 しかし、きょう、聖書が私たちに問いかけていることは、とても単純です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記1章15節~22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

 きょうの出エジプト記には、一人の強大な王と、二人の助産婦が登場します。

 王は絶大な権力を持っていました。一方、助産婦たちは、社会の中で大きな権力を持っていた人たちではありません。

 けれども、この物語を読んでいくと、私たちは気づかされます。

 本当に恐れるべき方を知っていたのは、いったい誰だったのか、ということです。

 少し前のところから、この物語の背景を見ておきましょう。

 エジプトにいたイスラエルの人々は、その数を増していきました。

 ところが、新しくエジプトの王となったファラオは、それを喜びませんでした。

 ファラオにとって、増えていくイスラエルの民は脅威でしかありませんでした。

 そこでファラオは、イスラエルの民を苦しめ始めました。重い労働を課し、彼らを弱らせようとします。

 しかし、不思議なことに、苦しめれば苦しめるほど、イスラエルの民は増えていきました。

 そこでファラオは、さらに恐ろしいことを考えます。

 生まれてくるヘブライ人の男の子を殺してしまおうとします。

 16節には、こうあります。

 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」

 助産婦たちにそう命じました。これは、恐ろしい命令です。

 しかも、命令しているのはエジプトの王です。逆らえばどうなるか分かりません。

 それでも、この二人の助産婦は、王の命令に従いませんでした。

 17節には、こうあります。

「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」

 ここが、きょうの箇所の中心です。

 「助産婦はいずれも神を畏れていた」。

 助産婦たちは、ファラオが怖くなかったのでしょうか。

 王の命令に逆らうことが、危険ではなかったはずはありません。命令に従わなければ、自分たちの命さえ危うくなるかもしれません。

 助産婦たちにも恐れはあったでしょう。

 しかし、彼女たちには、ファラオよりもさらに畏れるべき方がおられました。

 それが、神です。

 「神を畏れる」と聞くと、神を怖がることだと思うかもしれません。

 しかし、ここで言われているのは、ただ恐怖を感じるということではありません。

 神を神として認めることです。

 人間の命令よりも、神の御心を重く受け止めることです。

 ファラオは大きな権力を持っていました。しかし、ファラオもまた、一人の人間にすぎません。

 けれども神は、すべてのものの造り主です。

 助産婦たちは、そのことを知っていました。

 だから助産婦たちは、王の命令に従うことよりも、神の前に正しく生きることを選びました。

 ここで、一つ興味深いことがあります。

 この箇所には、二人の助産婦の名前が記されています。

 シフラ。そしてプア。

 ところが、この時代のエジプトの王の名前は、ここには記されていません。

 地上の歴史では、王や権力者の名前が残り、普通の人々の名前は忘れられてしまうことが多いでしょう。

 しかし、聖書は、この二人の女性の名前を記憶しています。

 神を畏れ、命を守った人たちの名前を、神は忘れておられません。

 さて、ファラオは助産婦たちが命令に従っていないことを知ります。

 そして彼女たちを呼びつけて、問いただします。

 「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」

 助産婦たちは答えます。

 「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

 この答えを、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。

 ここで聖書が最も強調しているのは、助産婦たちの答え方ではありません。

 繰り返し語られているのは、彼女たちが神を畏れていたということです。

 20節にはこうあります。

 「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。」

 そして21節にも、

 「助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」

とあります。

 神を畏れる二人の女性の小さな行動を、神は見ておられました。

 ファラオは、イスラエルの未来を断とうとしました。

 しかし、人間の力によって、神の計画を止めることはできません。

 ここには、はっきりとした対比があります。

 ファラオは命を奪おうとします。

 助産婦たちは命を守ります。

 そして神は、命を守る者たちの側に立っておられます。

 ところで、この物語を読むと、私たちは、もう一つのことに気づかされます。

 実は、ファラオ自身も恐れていた、ということです。

 彼は何を恐れていたのでしょうか。

 イスラエルの民が増えることです。

 自分の国が脅かされることです。

 自分の権力が失われることです。

 ファラオは強大な権力を持っていました。

 けれども、その心は恐れに支配されていました。

 そして、その恐れは、ますます大きな暴力を生み出していきます。

 助産婦たちが命令に従わないと、ファラオはついに全国民に命じます。

 「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

 恐れに支配されるとき、人は自由ではなくなります。

 自分を守ろうとするあまり、他の人を傷つけることさえあります。

 ファラオは、強い人でした。

 しかし、本当に自由だったのは、果たしてどちらだったでしょうか。

 大きな軍隊を持ち、国を支配していたファラオでしょうか。

 それとも、王の前では弱い立場にあった二人の助産婦でしょうか。

 私は、助産婦たちだと思います。

 なぜなら、シフラとプアは、恐怖に支配されなかったからです。

 正確に言えば、助産婦たちは恐るべき方を知っていました。

 神を畏れることによって、人を恐れることから自由にされました。

 これは、現代を生きる私たちにとっても、大切なことを教えています。

 私たちは、ファラオのような王の命令を受けることは、めったにないでしょう。

 しかし、私たちにも恐れているものがあります。

 人からどう思われるか。

 周りから嫌われないか。

 正しいと思うことを言ったために、自分が損をしないか。

 みんなが同じ方向に進んでいるとき、一人だけ違うことを言うのは勇気が必要です。

 恐れるべき方を正しく知るとき、私たちは恐れに支配されない生き方へと導かれていきます。

きょうも、私たちを愛し、すべてを支配しておられる神を畏れながら、与えられた場所を歩んでいきましょう。

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