山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:恐れるべき方は誰なのか(出エジプト1:15-22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
何かを恐れた経験はありますか。
病気を恐れる。将来を恐れる。人から嫌われることを恐れる。
そして私たちは、気がつかないうちに、人の目を恐れて生きていることがあります。
恐れは、私たちの行動を左右します。
しかし、きょう、聖書が私たちに問いかけていることは、とても単純です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記1章15節~22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
きょうの出エジプト記には、一人の強大な王と、二人の助産婦が登場します。
王は絶大な権力を持っていました。一方、助産婦たちは、社会の中で大きな権力を持っていた人たちではありません。
けれども、この物語を読んでいくと、私たちは気づかされます。
本当に恐れるべき方を知っていたのは、いったい誰だったのか、ということです。
少し前のところから、この物語の背景を見ておきましょう。
エジプトにいたイスラエルの人々は、その数を増していきました。
ところが、新しくエジプトの王となったファラオは、それを喜びませんでした。
ファラオにとって、増えていくイスラエルの民は脅威でしかありませんでした。
そこでファラオは、イスラエルの民を苦しめ始めました。重い労働を課し、彼らを弱らせようとします。
しかし、不思議なことに、苦しめれば苦しめるほど、イスラエルの民は増えていきました。
そこでファラオは、さらに恐ろしいことを考えます。
生まれてくるヘブライ人の男の子を殺してしまおうとします。
16節には、こうあります。
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
助産婦たちにそう命じました。これは、恐ろしい命令です。
しかも、命令しているのはエジプトの王です。逆らえばどうなるか分かりません。
それでも、この二人の助産婦は、王の命令に従いませんでした。
17節には、こうあります。
「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」
ここが、きょうの箇所の中心です。
「助産婦はいずれも神を畏れていた」。
助産婦たちは、ファラオが怖くなかったのでしょうか。
王の命令に逆らうことが、危険ではなかったはずはありません。命令に従わなければ、自分たちの命さえ危うくなるかもしれません。
助産婦たちにも恐れはあったでしょう。
しかし、彼女たちには、ファラオよりもさらに畏れるべき方がおられました。
それが、神です。
「神を畏れる」と聞くと、神を怖がることだと思うかもしれません。
しかし、ここで言われているのは、ただ恐怖を感じるということではありません。
神を神として認めることです。
人間の命令よりも、神の御心を重く受け止めることです。
ファラオは大きな権力を持っていました。しかし、ファラオもまた、一人の人間にすぎません。
けれども神は、すべてのものの造り主です。
助産婦たちは、そのことを知っていました。
だから助産婦たちは、王の命令に従うことよりも、神の前に正しく生きることを選びました。
ここで、一つ興味深いことがあります。
この箇所には、二人の助産婦の名前が記されています。
シフラ。そしてプア。
ところが、この時代のエジプトの王の名前は、ここには記されていません。
地上の歴史では、王や権力者の名前が残り、普通の人々の名前は忘れられてしまうことが多いでしょう。
しかし、聖書は、この二人の女性の名前を記憶しています。
神を畏れ、命を守った人たちの名前を、神は忘れておられません。
さて、ファラオは助産婦たちが命令に従っていないことを知ります。
そして彼女たちを呼びつけて、問いただします。
「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」
助産婦たちは答えます。
「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
この答えを、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。
ここで聖書が最も強調しているのは、助産婦たちの答え方ではありません。
繰り返し語られているのは、彼女たちが神を畏れていたということです。
20節にはこうあります。
「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。」
そして21節にも、
「助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」
とあります。
神を畏れる二人の女性の小さな行動を、神は見ておられました。
ファラオは、イスラエルの未来を断とうとしました。
しかし、人間の力によって、神の計画を止めることはできません。
ここには、はっきりとした対比があります。
ファラオは命を奪おうとします。
助産婦たちは命を守ります。
そして神は、命を守る者たちの側に立っておられます。
ところで、この物語を読むと、私たちは、もう一つのことに気づかされます。
実は、ファラオ自身も恐れていた、ということです。
彼は何を恐れていたのでしょうか。
イスラエルの民が増えることです。
自分の国が脅かされることです。
自分の権力が失われることです。
ファラオは強大な権力を持っていました。
けれども、その心は恐れに支配されていました。
そして、その恐れは、ますます大きな暴力を生み出していきます。
助産婦たちが命令に従わないと、ファラオはついに全国民に命じます。
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
恐れに支配されるとき、人は自由ではなくなります。
自分を守ろうとするあまり、他の人を傷つけることさえあります。
ファラオは、強い人でした。
しかし、本当に自由だったのは、果たしてどちらだったでしょうか。
大きな軍隊を持ち、国を支配していたファラオでしょうか。
それとも、王の前では弱い立場にあった二人の助産婦でしょうか。
私は、助産婦たちだと思います。
なぜなら、シフラとプアは、恐怖に支配されなかったからです。
正確に言えば、助産婦たちは恐るべき方を知っていました。
神を畏れることによって、人を恐れることから自由にされました。
これは、現代を生きる私たちにとっても、大切なことを教えています。
私たちは、ファラオのような王の命令を受けることは、めったにないでしょう。
しかし、私たちにも恐れているものがあります。
人からどう思われるか。
周りから嫌われないか。
正しいと思うことを言ったために、自分が損をしないか。
みんなが同じ方向に進んでいるとき、一人だけ違うことを言うのは勇気が必要です。
恐れるべき方を正しく知るとき、私たちは恐れに支配されない生き方へと導かれていきます。
きょうも、私たちを愛し、すべてを支配しておられる神を畏れながら、与えられた場所を歩んでいきましょう。




