山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:川に流された希望(出エジプト2:1-10)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
大切なものを「手放さなければならない」と感じたことはありますか。
一生懸命守ってきたものなのに、もう自分の力では守ることができない。できることを全部したけれど、それでも、あとは手放すしかない。そんな経験です。
今日の聖書に登場する一人の母親も、まさにそのようなところに立たされていました。
その母親が最後にしたことは、何とも不思議なことでした。小さな篭を作り、そこに赤ん坊を入れて、ナイル川の葦の茂みの間に置いたのです。
大切な子どもを、川に置く。普通に考えれば、それは希望を捨てることのように思えます。
ところが聖書は、その小さな篭から、イスラエルの民民族の救いにつながる大きな物語が始まったことを語っています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記2章1節~10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの篭を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に篭を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
まず、少し背景を確認しておきましょう。
出エジプト記1章では、エジプトに住むイスラエルの人々が増えていったことを恐れたファラオが、彼らを苦しめます。
そして、ヘブライ人の男の子を殺すよう命じました。
1章の最後には、ファラオの命令がこう記されています。
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」。
その直後に始まるのが、今日の2章です。
つまりモーセは、生まれた男の子が殺されるという、恐ろしい時代に生まれました。
ところが2章1節は、「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった」と、ごく普通の一組の男女の姿から始まります。
世界を支配するファラオに対して、聖書が描くのは、一つの小さな家庭です。
しかし、神の救いの物語は、こうした小さなところから始まります。
母親は、生まれた男の子を三か月の間、隠しておきました。
けれども、もはや隠しきれなくなります。
ここに、母親の限界があります。
どれほど愛していても、どれほど努力しても、自分の力だけでは守り続けることができない状況です。
そこで母親は、パピルスの篭を用意し、アスファルトとピッチで防水して、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。
これは、ただ子どもを捨てたということではありません。
母親は、できることをしました。
そして最後には、自分の手の届かないところへ、その子を託しました。。
ここに、信仰の一つの姿を見ることができます。
信仰とは、何もしないことではありません。
できることをする。
そして、自分の力ではどうにもならないところを、神に委ねることです。
その子の姉も、遠くから見守っていました。
「どうなることかと様子を見ている」とあります。
すると、そこへファラオの王女がやって来ます。
王女は篭を見つけ、開けてみると、赤ん坊が泣いていました。
そして6節には、
「王女はふびんに思い、『これは、きっと、ヘブライ人の子です』と言った」
とあります。
ここには、この物語の不思議なところがあります。
男の子を殺せと命令したのはファラオです。
ところが、そのファラオの王女が、一人のヘブライ人の赤ん坊を見て、ふびんに思いました。
死を命じる権力のただ中で、一人の女性の憐れみが、一人の子どもの命を救います。
しかも、さらに驚くことが起こります。
姉が王女に申し出ます。
「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
王女が「そうしておくれ」と答えると、姉は母親を連れてきます。
そして王女は母親に言います。
「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」。
何ということでしょう。
母親は、守るために手放した子どもを、もう一度、自分の腕に抱くことになりました。
母親には、未来が見えていませんでした。
篭を川辺に置いたとき、その先に何が起こるのか知りませんでした。
けれども、母親には見えていなかったところで、物語は動いていました。
この物語で、神が直接姿を現すわけではありません。
神の声が聞こえるわけでもありません。
ただ、一つ一つの出来事がつながっていきます。
神の働きは、このように、私たちの日常の出来事に隠れていることがあります。
そして10節で、この子に名前が与えられます。
「その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」
モーセは、水の中から引き上げられた人です。
そして、このモーセが、後に神によって用いられ、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから導き出すことになります。
この時のモーセは、もちろん自分の将来を知りません。
しかし、本人が知らないところで、神の救いの計画は始まっていました。
これは、今日を生きる私たちにも、大切な希望を与えてくれます。
私たちにも、「もう自分ではどうにもできない」と思う時があります。
家族のこと。
仕事のこと。
将来のこと。
自分自身の弱さ。
そんな時、私たちは「もう何もできない」と思ってしまいます。
けれども、モーセの母親は、何もしなかったのではありません。
できることをしました。
そして、自分ではどうにもならないところで、その子を手放しました。
私たちも、できることはしなければなりません。
愛する人のためにできることをする。
祈る。
助けを求める。
誰かのそばにいる。
必要なことを一つずつする。
しかし、それでも私たちには、どうしても手の届かないところがあります。
その時には、その先を神に委ねることが大切です。
委ねるというのは、諦めることでも、希望を捨てることでもありません。
自分の手よりも大きな神の御手に、その人や出来事を置き直すことです。
私たちには見えなくても、神の物語は終わっていません。
川辺に置かれた小さな篭から、神が大きな救いの物語を始められたように、私たちの人生の小さな一歩をも、神は御心のために用いることがおできになります。
「川に流された希望」。
この言葉を心に留めながら、今日も神を信頼して歩んでいきたいと願います。



