十字架神の恵みの現れ | コリントの信徒への手紙一 15章

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コリントの信徒への手紙一 15章

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。…しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コリントの信徒への手紙一 15章10節

十字架神の恵みの現れ

10節に「神の恵み」という表現が3回使われています。動詞の「恵む」を国語辞書で引くと、「情けをかける。かわいそうに思って、金や物を与える」(新明解)とあります。また、この辞書には「表記」として「『恤む』とも書く」とあります。漢字研究者の白川静博士の編集した辞典によれば、立心偏に血と書く「恤む」は、「仲間となる誓いをして神に祈る姿」を表している漢字に由来します(字統)。最も大切な福音が書いてある15章の文脈でこの漢字の成り立ちを想い巡らすと、この漢字が十字架に磔にされた主イエスの御姿と重なって来ます。ご自分を十字架に磔にした敵なのに、かえって仲間となって寄り添い、神に赦しを祈り求められた主イエスの御姿こそ、「恤む」という漢字そのものではないか!と。

主なる神は、私たち罪人をかわいそうに思って、独り子イエスをお与えになったのではありません。高き天におられるままで恵んでくださるのでもありません。10節でパウロは、「わたしと共にある神の恵み」と言っています。神の恵みは共にあり、仲間となって寄り添います。何よりも、神の恵みの現れが、主イエス・キリストの十字架にほかなりません。神の恵みは主イエス・キリストを通して現れたのです。

【祈り】

天の父よ、あなたの豊かな恵みにより、きょうのわたしがあることを感謝します。

長谷川 潤(四日市教会)