聖書を開こう

できない理由ばかり並べる私たち(出エジプト記4:1-17)

放送日
2026年10月8日(木)
お話し
山下正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:できない理由ばかり並べる私たち(出エジプト記4:1-17)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何か新しいことを頼まれたとき、どんなことを考えるでしょうか。

 「私には経験がありません」
 「そんな時間はありません」
 「人前で話すのは苦手です」
 「もっとふさわしい人がいるでしょう」

 私たちは、「できない理由」を見つけるのが、案外上手です。

 もちろん、本当に難しいこともあります。自分の力の限界を知ることも大切です。

 しかし、「できない理由」を一つ、また一つと並べているうちに、それが本当に「できない」のか、それとも「怖いからやりたくない」のか、分からなくなることがあります。

 今日の聖書に登場するモーセも、まさにそんな状態でした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記4章1節~17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」
 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。
 「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」

 モーセは、神から大きな使命を与えられていました。

 エジプトで苦しんでいるイスラエルの民のところへ行き、ファラオに民を去らせるよう求め、民をエジプトから導き出すという使命です。

 けれどもモーセは、自分にはそんなことはできないと思っていました。

 そこで、神にいろいろな理由を並べ始めます。

 最初の理由は、「イスラエルの人々が自分を信用してくれない」というものでした。

 そう言うモーセに、神は尋ねます。

 「あなたが手に持っているものは何か。」

 モーセが答えたのは、「杖です」という、とても普通の答えでした。

 神は、その杖を地面に投げるよう命じます。すると杖は蛇になり、モーセが尾をつかむと、再び杖に戻りました。

 さらに神は、モーセの手に起こるしるしを示し、最後にはナイル川の水が血に変わるしるしについても語られます。

 神は、モーセの不安を「そんなことを心配するな」と簡単に片づけたのではありません。

 モーセが人々の前に立つとき、神ご自身が働いてくださることを示されたのです。

 ところが、モーセはまだ納得しません。

 今度は別の理由を持ち出します。

 「私は話すのが苦手です。」

 10節でモーセはこう言います。

 「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。」

 これは、私たちにもよく分かる言葉ではないでしょうか。

 「自分には才能がない」
 「人前で話すのは苦手だ」
 「自分には無理だ」

 そんな思いです。

 ところが神は、モーセにこう答えます。

 「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」

 そして、こう言われます。

 「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

 ここが、この箇所の大切なところです。

 神は、「モーセ、あなたは話すのが上手だから大丈夫だ」と言ったのではありません。

 モーセの弱さそのものを知った上で、

 「わたしがあなたと共にいる」

 と言われたのです。

 ところがモーセは、それでも引き下がりません。

 13節で、ついにこう言います。

 「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」

 ここまで来ると、モーセは「できない理由」を探しているというより、「私ではなく、誰か別の人を」と願っているように見えます。

 神はついに怒りを発せられます。

 しかし、それでもモーセを見捨てません。

 モーセの兄アロンを助け手として与えます。

 「彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」

 こうして神は、モーセの弱さを知った上で、必要な助けを備えられました。

 そして最後に、

 「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」

 と命じられます。

 ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

 この箇所は、「自信を持てば何でもできる」と教えているのではありません。

 むしろ、反対です。

 「自分にはできない」と知っているモーセに、神が「それでも行きなさい」とおっしゃいます。

 私たちも、何かを始めようとするとき、自分の弱さを考えます。

 「私には経験がない」
 「能力がない」
 「失敗するかもしれない」
 「もっとふさわしい人がいる」

 もちろん、自分の弱さを認めることは悪いことではありません。

 しかし、その弱さを理由にして、神が働かれる可能性まで閉ざしてしまってはいけません。

 モーセに必要だったのは、「自分ならできる」という自信ではありませんでした。

 必要だったのは、「神が共にいてくださる」という信頼でした。

 モーセの手にあったのは、一本の杖でした。

 それは特別なものではありませんでした。

 けれども、神の手に委ねられたとき、その杖は神の働きのために用いられました。

 私たちの手にも、「こんなものしかない」と思えるものがあるかもしれません。

 小さな経験。
 わずかな時間。
 限られた能力。

 でも、神は私たちが持っているものを用いることがおできになります。

 そして、必要ならアロンのような助け手も備えてくださいます。

 ですから、「私にはできません」と言うことから、もう一歩進んでみましょう。

 「主よ、私にはできません。でも、あなたが共にいてくださるなら、私を用いてください。」

 そう祈ることができるのではないでしょうか。

 私たちは、「私にできるだろうか」と考えます。

 しかし、信仰が私たちに問いかけるのは、

 「あなた一人でできのか」ではなく、

 「神と一緒に歩むことができのるか」

 ということなのかもしれません。

 今日、もし何かについて「私には無理だ」と思っているなら、そのことを神にそのまま申し上げてみましょう。

 そして、モーセと共におられた神が、私たちとも共にいてくださることを信じて、一歩を踏み出してみたいと思います。

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