山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:「わたしはある」と名乗られる神(出エジプト記3:13-22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分の名前を聞かれたら、どんなふうに答えるでしょうか。「山下です」「正雄です」。普通は、それで十分です。
では、聖書の神はご自分の名前をどのように紹介しておられるのでしょうか。実は聖書には神の名前を尋ねた人がいます。モーセがその人です。
モーセは、神から「エジプトに行って、イスラエルの人々を導き出しなさい」と命じられました。しかし、モーセには心配がありました。イスラエルの人々から、「あなたを遣わした神の名前は何ですか」と聞かれたら、何と答えればいいのか、分かりませんでした。
そこで神がモーセに答えられた言葉が、今日の箇所の中心です。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記3章13節~22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。
さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。
そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」
ここで、少し背景を確認しておきましょう。
このときモーセは、ミディアンの地で羊を飼っていました。かつてエジプトの王宮で育ったモーセでしたが、イスラエル人を助けようとしてエジプト人を殺し、エジプトを逃れていました。
そのモーセに神が現れ、「イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい」と命じられました。
モーセにとってこれは簡単な仕事ではありません。自分に何ができるのか。イスラエルの人々は自分を信じるのか。エジプトの王は応じるのか。いろいろな不安があったでしょう。
そんなモーセに神が言われたのが、「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉でした。
これは、神が「わたしはこういう特徴を持ってる」と自己紹介された、というだけではありません。
人間は、昨日と今日で状況が変わります。将来、自分がどうなっているかも分かりません。しかし神は、誰かに存在させてもらう方ではありません。神ご自身が変わることなく永遠に「ある」お方です。
だから、モーセの使命の確かさは、モーセ自身の力にかかっているのではありません。「わたしはある」とおっしゃる神にかかっています。
そして15節では、この神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。
ここが大切です。「わたしはある」という神は、遠く離れた、抽象的な神ではありません。アブラハム、イサク、ヤコブと共に歩んできた神です。そして今、エジプトで苦しんでいるイスラエルの民にも関わっておられます。
16節で神は、「わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た」と言われます。
神は、苦しみを見過ごしてはおられません。民の苦しみを見ておられます。そして、そこから救い出すために、モーセを遣わされます。
ですから、「わたしはある」という言葉は、ただ「神は存在している」という意味だけではありません。
「わたしはここにいる。あなたたちを見ている。そして、あなたたちのために働く」という神の確かな宣言として聞くことができます。
私たちの人生にも、先の見えない時があります。
「これからどうなるのだろう」「この問題はいつまで続くのだろう」「自分には何もできない」。そんなふうに思うことがあります。
そのとき私たちは、自分の力や目の前の状況ばかりを見てしまいます。
しかし、出エジプト記3章が私たちに教えているのは、「まず自分を見るのではなく、神を見なさい」ということです。
モーセに必要だったのは、自分に自信を持つことではありませんでした。「わたしはある」と言われる神を信頼することでした。
私たちが分からない未来も、神にとって未知ではありません。私たちが見失っている道も、神には見えています。
たとえば、仕事や家庭のことで、自分の判断だけではどうにもならないことがあるでしょう。人との関係がこじれたり、長い間願っていることがなかなか実現しなかったりすることもあります。そんなとき、「自分が何とかしなければ」と肩に力が入ってしまいます。
もちろん、私たちにできることをするのは大切です。しかし、すべてを自分の肩に背負う必要はありません。「わたしはある」と言われる神がおられるからです。
しかも神は、モーセに「あなたなら大丈夫」と言われたのではありません。イスラエルの民の苦しみを見て、「わたしはあなたたちを顧みた」と言われました。神の働きの中心にあるのは、苦しむ人を放っておかない愛です。
今日を生きる私たちも、分からないことがあるまま神に信頼することができます。すぐに答えが見えなくても、神が「ある」ことは変わりません。
朝、目を覚ましたとき、「今日も自分一人で頑張らなければ」と始めるのではなく、「わたしはある」と言われる神が今日も共にいてくださる、と覚えて一日を始めることが大切です。
モーセが偉大だったから、イスラエルが救われたのではありません。「わたしはある」と言われる神が、モーセと共におられたからです。
今日も、変わる私たちではなく、変わらない神に目を向けて歩んでいきましょう。
「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
この神が、今日もあなたと共にいてくださいます。



