聖書を開こう

裏切りは、どこから始まるのか(マタイによる福音書26:14-25)

放送日
2026年5月21日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:裏切りは、どこから始まるのか(マタイによる福音書26:14-25)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「まさか、あの人が」。そんな言葉を耳にすることがあります。長年信頼されていた人が突然仲間を裏切った。親しい友人が陰で自分を傷つけていた。家族の中でさえ、信頼が崩れてしまうことがあります。

 裏切りというのは、相手に深い傷を残します。そして不思議なのは、多くの場合、裏切りは敵によってではなく、近しい人によって起こるということです。

 しかし、裏切りはある日突然始まるのでしょうか。実はそうではありません。多くの場合、それは人の心の中で静かに始まっています。表面ではこれまで通り振る舞っていても、心が少しずつ離れていくのです。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所には、聖書の中でも最も有名な裏切りの場面が記されています。イエス・キリストを裏切った弟子、イスカリオテのユダの物語です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章14節~25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 きょう取り上げた出来事は、過越祭を目前にしたエルサレムで起こりました。過越祭は、イスラエルの人々にとって特別な祭りです。そのため、エルサレムには全国から大勢の巡礼者が集まり、町は熱気に包まれていました。

 一方で、宗教指導者たちはイエスを危険視していました。イエスの人気が高まり、人々がイエスを解放者・救済者として担ぎ上げることを恐れていたからです。

 そのような緊張した空気の中で、一人の弟子が動き始めます。イスカリオテのユダです。

 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」。

 そこには愛ではなく、計算があります。忠誠ではなく、利益があります。

 銀貨三十枚という金額は、当時、奴隷一人の値段ほどだと言われています。つまりユダは、神の子イエスをその程度の価値として扱ったのということです。

 もちろん、ユダも最初から裏切り者だったわけではありません。ユダもまたイエスに従った弟子でした。

 けれどもユダの心は、少しずつ主から離れていったのでしょう。

 実は、裏切りとはこうして始まります。突然ではありません。心の中で、神よりも別のものを大切にし始めるところから始まります。

 さて場面は、最後の晩餐へと移ります。イエスは弟子たちと共に過越の食事を囲まれました。本来それは、神の救いを喜び、感謝する食卓です。

 ところが、その席でイエスは衝撃的なことを語られます。

 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 弟子たちは大きな衝撃を受けました。そして一人一人がこう尋ねます。

 「主よ、まさかわたしのことでは」。

 ここは非常に重要な場面です。

 弟子たちは、「誰ですか」と他人探しを始めたのではありません。まず自分自身を振り返りました。「もしかすると、自分なのではないか」。これが信仰者の姿です。

 私たちは問題が起こると、すぐ誰かを責めたくなります。しかし聖書は、まず自分自身の心を見るように促します。

 「主よ、わたしではありませんか」。

 この問いを失うとき、人は危険になります。

 しかもイエスは、誰が裏切るかを知っておられました。それでもなお、ユダを食卓から追い出されませんでした。同じ食卓につき、同じパンを分け与えられました。ここに、イエスの深い愛があります。

 イエスは最後の最後まで、ユダが立ち返ることを願っておられました。

 そして24節でイエスはこう言われます。

 「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 これは恐ろしい言葉です。しかしここには、イエスの深い悲しみがあります。

 神は、人が滅びることを喜ばれません。だからこそイエスは、ユダの選ぼうとしている道の恐ろしさを語られたのです。

 ところがユダもまた、他の弟子たちと同じように尋ねます。

 「先生、まさかわたしのことでは」。

 けれどもこの言葉には、どこか空しさがあります。外側では弟子として振る舞いながら、内側ではすでにイエスから離れていたからです。

 これは私たちにも起こり得ることです。教会に通っていても、賛美を歌っていても、奉仕をしていても、心が主から離れてしまうことがあります。

 信仰は外側だけでは測れません。大切なのは、「主を愛しているか」ということです。

 今日の箇所を読むとき、私たちはユダだけを責めて終わることはできません。なぜなら、他の弟子たちもまた、この後イエスを見捨てて逃げ出すからです。

 つまり、この物語は「悪いユダ」の話だけではありません。人間の弱さそのものが描かれている場面です。

 私たちも、自分では「大丈夫」と思っていても、状況が変われば簡単に主から離れてしまう弱さを持っています。だからこそ、弟子たちの「主よ、まさかわたしでは」という言葉は、とても大切です。この問いを持ち続ける人は、砕かれた心を失いません。

 反対に、「自分だけは大丈夫」と思い始めるとき、人は危険になります。

 では、裏切りはどこから始まるのでしょうか。それは、主を見失うところからです。感謝を失うところからです。愛が冷えるところからです。小さな妥協を「これくらい大丈夫」と放置するところからです。

 しかし今日の聖書は、ただ人間の暗さを語って終わってはいません。そこにはなお、イエスの愛があります。イエスは、弱く、揺れ動き、時に裏切ってしまう私たちを、それでもなお招いてくださるお方です。

 私たちも失敗します。神に背いてしまうことがあります。心が冷えることもあります。けれどもそのとき、主のもとへ帰る道が残されています。

 だからこそ私たちはこう祈ります。

 「主よ、わたしの心をあなたから離れさせないでください」。

 その祈りを持ちながら、主と共に歩んでいきましょう。

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