聖書を開こう

愛は、なぜ無駄だと言われるのか(マタイによる福音書26:1-13)

放送日
2026年5月14日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:愛は、なぜ無駄だと言われるのか(マタイによる福音書26:1-13)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 誰かのために時間やお金や心を使ったときに、「そこまでしなくてもいいのに」と言われた経験はないでしょうか。

 たとえば、病気の家族を長い間介護している人に対して、「そんなに自分を犠牲にしなくても」と言う人がいます。あるいは、困っている人の話を何時間も聞いてあげる人に、「もっと自分の時間を大事にしたら」と言う人もいます。

 また、教会の働きやボランティアに熱心に関わっている人に対して、「そんなことをして何になるのか」と冷ややかな目を向ける人もいます。

 愛は、ときどき「無駄」に見えるものです。

 効率を重視する社会の中で、数字にならないもの、成果がすぐに見えないものは、価値が低いように扱われがちです。しかし、聖書は私たちに「本当にそうなのか」と問いかけます。

 きょう取り上げようとしている聖書の箇所には、一人の女性が登場します。その人はイエスに対して大胆な愛の行いをしました。しかし、その場にいた人々は、その行為を「無駄遣いだ」と非難しました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書26章1節~13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 今お読みした場面の背景を簡単に見ておきたいと思います。

 マタイによる福音書26章は、イエス・キリストの受難物語の始まりです。十字架が目前に迫っていました。宗教指導者たちは、イエスを捕らえて殺そうと計画しています。弟子のユダも、このあとイエスを裏切ることになります。

 そういう緊張した空気の中で、イエスはエルサレムからそう遠くないベタニア村におられました。重い皮膚病を患っていたシモンという人の家で食事をしておられたときのことです。

 一人の女性がやって来ました。その女性は非常に高価な香油の入った壺を持っていました。そして、その香油をイエスの頭に惜しみなく注ぎました。

 この香油は、当時としては大変高価なものでした。他の福音書の記事を合わせて考えると、一年分の労働賃金ほどの価値があったとも言われています(ヨハネ12:5参照)。

 つまりその女性は、余り物を差し出したのではありません。自分にとって本当に大切なものを、惜しまずイエスにささげたのです。

 ところが、その様子を見ていた弟子たちは憤慨しました。

 「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。」

 弟子たちは続けて、「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言っています。

 一見すると、もっともな意見のように聞こえます。貧しい人を助けることは大切です。聖書もまた、貧しい人への配慮を繰り返し教えています。

 しかし、この場面でイエスは弟子たちを支持されませんでした。むしろ、この女性を弁護されます。

 「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」

 なぜでしょうか。

 弟子たちは、「何が一番役に立つか」という視点でこの出来事を見ていました。しかし、この女性は、「イエスを愛している」という心から行動していました。

 もちろん、貧しい人を助けることは大切です。しかし、人間はいつの間にか、「役に立つかどうか」だけで物事を判断するようになります。その結果、愛そのものを見失ってしまうことがあります。

 愛は、効率ではありません。

 世間から見れば、「もっと別のことができるのに」と思われるかもしれません。しかし、愛とは、「どれだけ得をするか」ではなく、「誰を大切にしているか」から生まれるものです。

 この女性は、イエスを愛していました。そして、その愛を惜しみなく表しました。

イエスはさらにこう言われました。

 「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」

 実はこのとき、弟子たちはまだイエスの十字架を本当には理解していませんでした。イエスが何度も受難を予告しておられたにもかかわらず、弟子たちはその意味を十分に受け止めていませんでした。

 しかし、この女性は違いました。すべてを理解していたわけではないでしょう。それでも彼女は、イエスの苦しみが近づいていることを感じ取っていたのかもしれません。

 だからこそ、今、この時に、イエスに愛を注いだのです。

 愛とは、相手の必要に心を向けることです。

 あとになってから、「もっと優しくしておけばよかった」と思うことがあります。「感謝を伝えておけばよかった」と悔やむことがあります。

 しかし、この女性は、今できる愛を、今ささげました。だからイエスは、その愛を深く受け止められたのです。

 そしてイエスは驚くべきことを言われます。

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 ここに、大切な真理があります。人が無駄だと言っても、神が尊いとされることがあります。

 考えてみれば、イエス・キリストの十字架そのものが、世の人々には「無駄」に見えました。それは敗北で無意味な死に見えました。

 しかし、その十字架によって、私たちに救いが与えられました。神の愛は、人間の効率や損得を超えています。

 だから私たちもまた、神の前でなす愛の業を、「無駄かどうか」という尺度だけで考えてはいけません。

 誰にも知られない祈りがあります。感謝されない奉仕があります。報われないように思える親切があります。

 けれども、神はそれをご覧になっています。

 イエスは、「(この人は)わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました。

 私たちの小さな愛もまた、主は見ていてくださいます。

 今日、あなたがしている愛の行為は、もしかすると誰にも理解されていないかもしれません。しかし、神に向かってなされた真実な愛は、決して無駄にはなりません。

 神はそれを覚えていてくださいます。

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