聖書を開こう

主人を待つ間、どう生きるのか(マタイによる福音書24:45-51)

放送日
2026年4月16日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:主人を待つ間、どう生きるのか(マタイによる福音書24:45-51)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 こんな経験はないでしょうか。学校で先生が職員室へ席を外した途端、教室がにわかに騒がしくなる。

 私たちは、誰か自分を評価する人の目があるときには、相応の振る舞いをしようと努めます。しかし、「誰も見ていないとき」、人は一体どのような姿を見せるでしょうか。実は、その「空白の時間」にこそ、その人の本当の姿、つまり人間性の本質が現れるものではないでしょうか。

 きょう取り上げようとしている個所は、まさにそのことを問いかけています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書24章45節~51節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 この箇所を理解するために、少し背景を見ておきましょう。マタイによる福音書24章は、イエス・キリストが語られた「終わりの時」に関する教えです。弟子たちは、「それはいつ起こるのですか」「どんな前ぶれがあるのですか」と尋ねました。しかしイエスは、具体的な時期を示すことはなさいませんでした。その代わりに繰り返し語られたのは、「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」ということでした。

 きょうの箇所も、その流れの中にあります。主人が旅に出ている間、しもべがどう振る舞うか。その姿によって、そのしもべがどのような人間であるかが明らかになる、というたとえです。ここでいう主人とはキリストご自身、しもべとは私たち信じる者一人ひとりを指しています。

 主人は必ず帰ってきますが、その時期は誰にも分かりません。この「主人の遅れ」こそが、しもべたちの本心をあぶり出す試練の場となります。

 まず、45節から47節には、「忠実で賢いしもべ」が登場します。このしもべは、主人から「時間通りに食事を与える」務めを任されていました。主人が留守の間も、このしもべは自分の役割を忘れることなく、任された務めを忠実に果たし続けます。

 ここで注目したいのは、「忠実」と「賢い」という二つの言葉です。忠実であるとは、任されたことを変わらずにやり続けることです。誰かに見られているからではなく、見られていなくても、同じように責任を果たすことです。そして「賢い」とは、主人の意図を理解して、状況に応じてふさわしく行動する知恵を持っているということです。ただ機械的にこなすのではなく、必要に応じて最善を考え、行動する知恵を持った人です。

 このしもべは、主人がいつ帰って来るか分からない中で、与えられた務めを果たし続けました。それも、ただ、今日という日に与えられた「食事を配る」という地味な務めです。そして主人が帰って来たとき、その姿が見いだされます。

 イエスは言われます。

 「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」

 そればかりか、「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」とさえおっしゃいます。

 小さな務めに忠実であった者に、さらに大きな信頼が委ねられます。

 その一方で、48節からは「悪いしもべ」が登場します。このしもべも、同じように主人から務めを任されていました。しかし彼は心の中でこう思い始めます。「主人は遅い」と。

 この「心の中で思う」というところが重要です。外から見れば、まだ何も起こっていないように見えるかもしれません。しかし、内面の変化がやがて行動に現れてきます。

 彼は仲間のしもべたちを殴り始め、酒飲みたちと一緒に飲み食いするようになります。つまり、自分に与えられた責任を忘れ、他者を顧みず、自分の欲望のままに生きるようになってしまいました。

 問題の根本はどこにあったのでしょうか。それは、「主人を忘れたこと」です。主人が帰って来るという現実が、心の中で消え去った途端、主人の不在を「自由勝手にしてよい時間」だと勘違いし、「主人はすぐには帰ってこない」という油断が傲慢で放縦な態度を生み出しました。

 しかし、主人は「思いがけない日、思いがけない時刻に」帰って来ます。

 この二人のしもべの対照から、イエスが伝えようとしていることは明らかです。問われているのは、「いつ主人が来るのか」ではなく、「主人が帰るまでの間、どう生きるのか」ということです。

 主人がいない時間は、自由に好き勝手にしてよい自由時間ではありません。それは、主人から委ねられた責任を果たすための時間です。そして同時に、その人の真実が試される時間でもあるのです。

 では、この言葉は、現代を生きる私たちにどのように語りかけているのでしょうか。

 第一に、「見られていない時間」の生き方です。私たちは教会にいるときには、信仰者らしく振る舞うことができるかもしれません。しかし、日常生活に戻ったとき、誰も見ていないところで、どのように生きているでしょうか。家庭での態度、職場での言葉、人に対する接し方。その一つ一つに、私たちの本当の姿が現れます。

 聖書は、神はすべてをご覧になっていると教えています。そのことを覚えるとき、私たちの生き方は変えられていくのではないでしょうか。

 第二に、任されている務めへの忠実さです。このたとえに出てくるしもべは、「時間どおり食事を与える」という務めを与えられていました。私たち一人ひとりにも、それぞれ任されている役割があります。

 それは決して大きな務めではないかもしれません。しかし、そうした日々の小さな務めに忠実であることこそが、神に喜ばれる生き方なのです。

 忠実さとは、派手な成果ではなく、継続に現れます。その歩みを、神は見ておられます。

 第三に、「主人は遅い」と思ってしまう心への警戒です。

 「まだ大丈夫だろう」と思うとき、人の心は少しずつ神から離れていきます。そして気づかないうちに、自分中心の生き方、快楽を求める生き方へと流されてしまうのです。

 だからこそ、イエスは繰り返し「目を覚ましていなさい」と語られます。

 しかし最後に覚えたいのは、主人の帰還は、ただ恐れるべきものではないということです。それは同時に、大きな希望でもあります。忠実に歩んできた者にとって、その日は喜びの日です。「よくやった、忠実なしもべよ」と言われる日なのです。

 私たちは皆、主人を待つしもべです。問われているのは、能力の大きさではありません。どれだけ成功したかでもありません。問われているのは、忠実であったかどうかです。

 主人は必ず帰って来られます。その日がいつであるかは分かりません。しかし、その日が来たとき、恥じることなくお迎えできるように、今日という一日を大切に生きていきたいと願います。

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