山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:本当の清さとは(マタイによる福音書15:1-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分自身を正直に顧みて、こんな自分の姿に気が付いたことはありませんか。外では礼儀正しく、丁寧な言葉遣いをしているのに、家に帰ると家族に対してつい冷たい態度を取ってしまう自分。あるいは、外見を整え、他人からは「いい人」と思われていても、心の中では妬みや怒りが渦巻いている自分。あるいは、自分のことは気が付きにくいかもしれませんが、そういう人は周りにもたくさんいるかもしれません。わたしたちは、目に見える行動や見た目に気を配る一方で、内側の心の状態には目をつぶりがちです。
きょう取り上げようとしている個所には、人間が陥りやすいそんな態度に対して、主イエス・キリストは「本当の清さ」について教えておられます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書15章1節~20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
今お読みした個所には、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスのもとに来て、弟子たちが食事の前に手を洗わないことを非難した様子が描かれています。彼らが問題にしているのは、衛生面の話ではなく、宗教的な「清さ」に関わる事柄です。
当時のユダヤ社会では、食事の前に手を洗うことが「昔の人の言い伝え」として特別に重要視されていました。これは、神に選ばれた民として、「聖なる生活」を保つための習慣でした。普段の生活の中で、真の神を知らない異教徒や罪人たちと、空間を共にすることは避けられません。そうした人々との接触によってもたらされる「汚れ」を清めるために、外出先から家に戻ったときには、手を洗うという儀式が欠かせませんでした。
イエス・キリストは彼らの非難に対して、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」と反論されます。
具体的には、神の戒めである「父と母を敬え」という掟を、ユダヤ人に伝わる人間の伝統によって無効にしていることを指摘されます。
本来は神との関係を正し、感謝や信仰を表すために用いられる、敬虔な捧げ物であったはずのものが、ユダヤ人たちは、親への援助を「神への供え物」(コルバン)と宣言することで、親を敬う義務を免れていたのです。
つまり、本来は親を助けるべきお金や財産を「これは神にささげたものだから、あなたには渡せません」と宣言することで、親への責任を免れる口実にしていたのです。
イエスは、彼らの行動を「偽善」と非難し、イザヤ書の預言を引用して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と述べられます。
そして、イエスは群衆を呼び寄せて、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と教えられます。
ここでイエスが強調されているのは、外面的な行動や儀式ではなく、心の内側の状態です。人を汚すのは、心から出てくる「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」などであり、これらが人の本質を汚すのです。
この教えは、現代の私たちにも深い示唆を与えます。私たちは、外見や行動に気を配るあまり、心の状態を見落としがちです。しかし、神は私たちの心を見ておられます。
例えば、礼拝に出席し、祈りや賛美を捧げていても、心の中に憎しみや妬みがあるならば、それは神に喜ばれるものではありません。私たちは、外面的な行動だけでなく、心の清さを求める必要があります。
では、どのようにして心の清さを保つことができるのでしょうか。
まず、日々の生活の中で、自分の心の状態を見つめ直すことが大切です。怒りや妬み、憎しみなどの感情が湧いてきたとき、それを神の前に正直に告白し、悔い改めることが求められます。
また、聖書の御言葉に耳を傾け、神の教えに従うことによって、心が清められていきます。詩編119編9節には、「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」とあります。
さらに、祈りを通して神との交わりを深めることも、心の清さを保つ助けとなります。フィリピの信徒への手紙4章6節7節には、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と記されています。
本当の清さとは、外面的な行動や儀式ではなく、心の内側の状態にあります。私たちは、日々の生活の中で、自分の心を見つめ直し、神の御言葉に従い、祈りを通して心を清めていく必要があります。
神は、私たちの心を見ておられます。外側を整えることも大切ですが、それ以上に、心の清さを求めていくことが大切です。神の御前に正直になって自分自身の罪深さに気付き、そこから清められるようにと、日々の生活の中で神の助けを求めて歩むこと、これこそが真の信仰生活であると信じます。