山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:イエスの働きに何を見るのか(マタイ12:22-32)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「ルビンの壺」とか「ルビンの顔」と呼ばれる図画があります。見方によっては向き合う二人の顔に見えたり、大きな壺や盃に見えたりする絵画です。同じものを見ているはずなのに、見る人によって全く違うものが描かれているように見えてしまいます。
私たちは、目で見たものを「そのまま」受け取っているつもりですが、実は、自分の先入観や考え方によって、見え方が変わってしまうことがあります。これは、日常生活だけでなく、聖書の世界にも当てはまります。
きょう取り上げようとしている聖書の箇所には、イエス・キリストの働きを目の当たりにした人々が、全く違った反応を示す場面が描かれています。ある人々は「これは神の力だ」と受け止めますが、別の人々は「悪霊の力だ」と全く逆の結論を出します。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書12章22節~32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自信があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
イエス・キリストの時代、ユダヤの人々は自分たちの国の独立を失いローマ帝国の支配下にありました。「ローマの平和」という言葉が一方ではありながら、支配されていた国の国民は重い税の負担や情勢不安定の中で、必ずしも誰もが平和を享受していたというわけではありませんでした。ユダヤの国の人々もローマの支配のもとで、神の国の到来と自分たちの民族の救いを期待していました。
そんな中で、イエスは多くの奇跡を行い、人々を癒し、神の国について語りました。特に、今日の箇所で語られる「悪霊に取りつかれた人を癒す奇跡」は、当時の人々にとっても、とても衝撃的なものでした。
マタイによる福音書12章22節には、目が見えず口の利けない人が、イエス・キリストによって癒されたとあります。この奇跡を見た群衆は驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」とざわめき始めます(12:23)。その意味は、イエスこそ、自分たちの期待を実現してくれる救い主ではないかということです。しかし、それを聞いたファリサイ派の人たちは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言い放ち、イエスがあたかも悪霊の仲間であるように印象付けました(12:24)。
ここで注目すべきなのは、ファリサイ派の人たちはイエス・キリストの奇跡そのものを否定したのではなく、「その力の出どころ」を否定したということです。つまり、「これは神の力ではなく、サタンの力によるものだ」と主張したのです。
なぜそのように考えたのでしょうか。それは、ファリサイ派の人々がすでに「イエスは自分たちの敵だ」という先入観を持っていたからです。すでに学んだように、ファリサイ派の人々はイエスを殺そうと相談さえし始めていたのですから、どれほど素晴らしい奇跡を目にしても、それを素直に「神の業」と認めることができませんでした。
イエス・キリストは、ファリサイ派の人たちの批判に対して、論理的な反論をします(12:25-29)。
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」(12:25-26)
その通り、ファリサイ派の主張が正しければ、イエス・キリストの奇跡はサタンの国の崩壊を表しているということになります。もちろん、ファリサイ派の人々はそこまで深くは考えていなかったでしょう。実際、自分たちの祈祷師たちが悪霊を追い出す儀式をするときには、決してそれを悪霊が悪霊を追い出す儀式だとは思ってもいないからです。
イエス・キリストはさらに詰め寄ります。
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(12:28)
悪霊を追い出すこと自体が、神の力の証明であるのに、それを「悪霊の力」と決めつけるのは、まったくもって言いがかりにすぎません。
そして、イエス・キリストは最後に、「聖霊を汚す罪」についての厳しい警告を語ります(12:31-32)。
「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
この言葉は、私たちにとって少し怖く感じられるかもしれません。しかし、ここでイエス・キリストがおっしゃりたかったのは、「神の明らかな働きを、意図的に否定し続けることの危険性」です。
神の御業が明らかに示されているにもかかわらず、それを頑なに拒み続けるならば、やがては神の導きを全く感じ取れなくなってしまう、それが「赦されない罪」なのです。
さて、この出来事を通して、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
まず、大切なのは、私たちはイエス・キリストの働きを正しく見ているか、という問いです。イエス・キリストの時代のファリサイ派の人々のように、私たちも「先入観」に縛られていないか、点検することが大切です。
イエスの働きは、今日の私たちの中にもあります。病や苦しみの中にある人が支えられ、希望を見出していくこと、絶望していた人が新しい道を見つけること。そうした小さな奇跡の中にも、神の働きを見ることができます。
しかし、それを「ただの偶然だ」「自分の力で乗り越えたんだ」と片付けてしまうなら、私たちは神の働きを見逃してしまうかもしれません。
今日の箇所から、私たちは「見え方は心の姿勢に左右される」という大切なことを学びました。
イエスの時代の人々と同じように、私たちも「これは神の御業だ」と素直に受け止めるのか、それとも「そんなはずはない」と拒むのか、選択を迫られています。ぜひ一度、先入観を脇に置いて、聖書の言葉に耳を傾けてみてください。きっと、新しい世界が見えてくるはずです。