山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:希望の灯を消さないお方(マタイ12:15-21)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私が小さかった頃、台風などで停電になることが予想されるときには、ロウソクを用意しておくのが常識でした。しかし、今は時代も変わり、灯油ランプもロウソクも常備している家庭はすっかりなくなってきたように思います。
けれども、明かりが消えて暗闇に置かれる不安は、今も昔も変わりないと思います。携帯電話のライトが手軽に周りを照らすことができる便利な時代になっても、その携帯電話のバッテリーが切れてしまえば、どうしようもありません。
暗闇が不安に感じるのは、何よりもどんな危険が自分に近づいているのか、目では確認しにくくなってしまうからです。もちろん、暗さそのものが不安をそそるということもあるでしょう。
人生も同じです。明るい将来が見えにくくなり、希望が失せてしまうとき、心が折れて、まるで暗闇の中にいるように感じてしまいます。
きょうこれから取り上げようとしている箇所で、イエス・キリストは、くすぶる灯心を消さないお方、傷ついた葦を折らないお方として、描かれています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書12章15節~21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
今日の場面は、立ち去るイエス・キリストの姿から始まります。なぜ、その場を立ち去ったのでしょうか。それは、前回学んだ箇所の一番最後に記されていたように、ファリサイ派の人々が、安息日の掟を破ることを正当化されたイエス・キリストを殺す相談をし始めたからでした。そのことを知って、イエス・キリストはその場を立ち去られたのでした。
しかし、そう言ってしまうと、問題を回避してその場から退いてしまうキリストの姿を想像してしまうかもしれません。けれどもそれは、マタイによる福音書が描こうとしているキリストの姿ではありません。その場を立ち去ったのは事実ですが、なすべき務めを放棄して、逃げ惑うキリストではありませんでした。
むしろ、その場から離れたとしても、民衆とともにいて、その必要に応え続けるキリストの姿が描かれます。言ってみれば、無駄な論争に時間を使うのでもなく、自分を守るためにどこかに姿をくらますのでもなく、その場を立ち去って、福音を必要とする人々と共に過ごすことを選ばれたイエス・キリストでした。
もう一点だけ付け加えるとすれば、前回取り上げた場面から先に出て行ったのは、ファリサイ派の人々でした。その場を出て行って、イエスを殺す相談をするファリサイ派の人々とは対照的に、イエス・キリストはそこを立ち去って、救いを必要とする人々を癒し、人を希望に生かす働きを続けられたということなのです。
そして、イエスに従ってきた群衆に対して、「御自分のことを言いふらさないように」とお命じになりました。このことも、単に自分の居場所が知れ渡り、自分を殺そうとたくらむ者たちに自分の行動を把握されてしまうのを恐れたからというわけではないでしょう。
むしろ、様々な噂が一人歩きすることで、人々の期待が、イエス・キリストが神から遣わされてきた目的とはかけ離れてしまうことを懸念したからだと思われます。
経済的な困窮や病からの解放、ひいてはその当時自分たちを支配していたローマの支配からの解放を民衆たちが願い、イエス・キリストにそのことを期待することは、当然起こりうることでした。
しかし、この福音書が最初から描くイエス・キリストの使命は、「自分の民を罪から救う」ことにありました(マタイ1:21)
そこで、マタイによる福音書は預言者イザヤの言葉を引用して、イエス・キリストがどういうお方であるのかを読者たちに伝えます。
ここに引用されるのはイザヤ書42章1節から4節にしるされた神の言葉です。その預言の言葉が描いているのは、ある一人の僕の姿です。「主の僕」と呼ばれる預言はイザヤ書全体で4回登場しますが、(42:1-2、49-1-6、50:4-11、52:13-12)、しかし、この預言書には、その僕が誰であるかが明記されているわけではありません。はっきりしていることは、この僕にかかわる預言が、イザヤの時代に生きる人々に期待と希望を与え、特にこのマタイによる福音書では、イエス・キリストにおいてこそ、この僕にかかわる預言が成就したことが強調されているということです。
では、きょうの個所で引用された預言の言葉には、僕の姿がどのように描かれているのでしょうか。
その預言は「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。」という言葉で始まります。主なる神に選ばれ、神の御心に適った僕という、神によるこの宣言は、マタイによる福音書の中で特別な意味をもって響いています。
というのは、前回学んだ箇所で、ファリサイ派の人々はイエス・キリストを全否定して、殺してしまおうと相談を始めます。もちろん、ファリサイ派の人々がそのような相談を始めたのは、確信があったからです。それは、イエス・キリストが神から遣わされたものではないどころか、神の御心に反逆する者だ、という確信です。
しかし、マタイによる福音書はその結論に弁明するかのように、ナザレのイエスこそが、神によって選ばれ、神の心に適った僕であることを証しようとしています。
そもそも、ここで描かれる人物が「僕」であること自体が、大きな意味を持っています。神が遣わされる人物は、勇ましい司令官や、敵との戦いに勝利する王の姿ではありません。むしろ「争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」、そのようなお方として、静かに人々を癒し、愛を示すお方です。
そればかりか、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」お方として、異邦人さえも望みを置く僕の姿です。
きょうの箇所にいたるまで、マタイによる福音書が描いてきたイエス・キリストの姿は、正に、この「主の僕」の姿と重なります。
イエス・キリストは私たちが弱さの中にあっても、希望の灯火を消さないお方です。イエス・キリストは大きな声や強さによってではなく、愛と誠実さによって神の力を示してくださるお方です。折れそうな私たちを勝利と祝福にまで導いてくださる救い主なのです。