コリントの信徒への手紙一 9章
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コリントの信徒への手紙一 9章19節
キリスト者の自由とは何か
遠山 信和(静岡教会)
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コリントの信徒への手紙一 9章19節
遠山 信和(静岡教会)
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コリントの教会には、パウロを使徒として認めようとせず、彼の言動を批判する人たちがいました。そうした人たちに対して、彼は「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と語ります(1節)。事実、パウロは復活のキリストに出会い、キリスト者を迫害する者から、キリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。
この章では、パウロが「信者である妻を連れて歩く権利」や「生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利」がありながらも、「できるだけ多くの人を得るため」にその権利を用いなかったと述べています。
現代社会は、人びとが自分の権利や自由を声高に叫ぶ時代です。厳しい言い方をすれば、私たちは自分たちが果たすべき義務よりも権利の方に目が行きがちです。そのような時代にあって、使徒パウロの生き方から、キリスト者にとっての自由とは何かという問題を改めて考えさせられます。世界中の人たちが自分の欲望の命ずるままに自由に振る舞ったら、私たちの生きる世界は自由な世界とはほど遠いものになります。自分が神のようになろうという思い上がりを捨てて、真実に神を神とする生き方の中に真の自由はあるのです。
【祈り】
真の自由をもたらす神と共に生きることができますように。