礼拝者に求めることは | 詩編 24編

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詩編 24編

どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 24編3節

礼拝者に求めることは

「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」と、問いかけられています。「主の山」と「聖所」を契約の箱が置かれている所だとすれば、神の臨在と深く関連があり、それと関係ある「主の山」に上る人や「聖所」に立つ人は、礼拝者であることが分かります。それならば、神を礼拝する人は誰か、と問いかけられていることに気づきます。

著者はそれについて、「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」だと答えています(4節)。神に選ばれた魂であるなら、その全員が礼拝者であり、礼拝者の心構えや姿勢を求められていることではないかと推測できます。神はそのような人を「祝福し、…恵みをお与えになる」と約束してくださいます(5節)。信仰の先祖であるダビデはそれを悟ったでしょう。

私たちは週の初めの日に共に集い、神への礼拝を守ります。その前の1週間の歩みがこの世との戦いであり、キリスト者としての信仰を清く守る戦いであります。

自らの力では潔白な手と清い心を持ち得ない私たちですが、主の憐れみによって、ひたすら「御顔を尋ね求める」者でありたいと思います(6節)。

【祈り】

私たちより先に立って戦ってくださる神よ、憐れんでください。

黄 敬秀(長久手伝道所)