見えようが見えまいが共にいる主 | ルカによる福音書 24章

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ルカによる福音書 24章

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。…二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ルカによる福音書 24章15節~16節

見えようが見えまいが共にいる主

主イエスが十字架で死なれて3日目の夕方、二人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって歩いていました。何か目的があって歩いていたのではありません。むしろ、彼らは大きな目的を失い、落胆して神の都を立ち去ろうとしていたのです。彼らは主イエスに期待していました。新しい時代が来るのではないか。強い王国が築かれるのではないか。そのような期待をもって主イエスに従ってきました。しかし、主は十字架につけられ、墓に葬られ、3日も経ってしまったのです。

「すべては終わったのだ」という深い絶望が、彼らの目を暗くしていたのでしょうか。なんと、隣に来て一緒に歩いてくださっているお方が主イエスであると、彼らには分からなかったというのです。まるで、落胆の道を歩く私たち自身の姿を見せられているかのようです。絶望する時、深く落ち込む時、私たちも自分の思い込みや自分の考えで目の前が遮られ、まさか主イエスが共に歩いてくださっているとは思えないのです。

しかし、彼らに見えていようが見えていまいが、復活の主は彼らと共におられます。やがて、彼らの目は開かれ、心が再び燃え始めたのです。今も、主は生きておられ、私たちと共に歩んでくださっています。

【祈り】

復活の主よ。私たちの目を開き、もう一度希望をもって歩きはじめることができますように。

小橋口 貴人(那加教会)