人の思いを超える神の寛大さ | 列王記上 20-22章

RCJメディアミニストリー「ふくいんのなみ」のトップページへ戻る

列王記上 20-22章

「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 列王記上 21章29節

人の思いを超える神の寛大さ

エリヤとアハブ王の戦いは意外な形で終えられます。アハブ王は、妻イゼベルとともに、悪行を重ね、最後は、律法に忠実なナボトを謀殺し、彼のぶどう畑を自分のものにしようとします。当然、主は罪を見過ごされず、エリヤを遣わされます。列王記記者も、「彼のように主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった」と彼を断罪します。

読者の誰もが、ただちに彼の身に主の裁きが下ることを期待するでしょうが、ここで話は意外な方向に進みます。アハブはエリヤの告げる主の裁きの言葉を聞くと、ただちに悔い改めて打ちひしがれます。すると、そのへりくだる姿をご覧になった主は、彼の存命中は災いを下すのを思いとどまられたのでした。

聖書を読むとき、私たちはいつもこの主の寛大さに驚かされます。主の目に悪と断罪される者にも、悔い改めるなら、主は憐れみを示されます。そこには、人を救おうとされる主の情熱が溢れています。人は、主の寛大さを裏切り、罪に身をゆだねることで滅びに至ります。そして、主の寛大さは御子を罪人のために与えられるほどであり、それゆえ私たちも救われました。きょうも、罪にではなく、主の寛大さと情熱に身をゆだねる者に祝福あれ。

【祈り】

主なる神よ。罪人のために御子をお与えになったあなたの寛大さに感謝して御座に近づけさせてください。

草野 誠(湖北台教会)