どのような渇きであれ、神の御前で | ヨハネによる福音書 7章37-39節

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ヨハネによる福音書 7章37-39節

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ヨハネによる福音書 7章37節~38節

どのような渇きであれ、神の御前で

「渇いている人」を、主イエスは招き続けます。いろいろな期待をかけて、いろいろな人が来たことでしょう。期待外れと思う人は、去って行きます。得たいものを得て、渇きを癒された人も、来続けることはありません。しかし、弟子たちは、神との交わりの中に生きるように導かれていきました。そして、本当に渇き求めるべきものは何なのかを学びながら、実際に渇きを癒されていったのです。

たとえば、のどの渇きを覚えるとき、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と学んでいきました(マタ6章32節)。人から認められたいと渇くとき、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」と学んでいきました(ヨハ5章44節)。

人の間で渇くことしか知らなかった人々が、神を仰いで渇き、神によって癒されることを学んでいきました。聖霊が降るとき、主の生きた御言葉が働いて、神の御前であらゆる渇きを癒し続けます。

貫洞 賢次(札幌伝道所)