フィリピの信徒への手紙 3章12-21節
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 フィリピの信徒への手紙 3章12節
キリストに捕らえられて
小橋口 貴人(那加教会)
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 フィリピの信徒への手紙 3章12節
小橋口 貴人(那加教会)
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パウロは信仰生活を「目標を目指してひたすら走る」レースに喩えています。オリンピック競技の中で最も過酷なものの一つがマラソンです。長距離走を走ったことのある方はわかると思います。わたしも学生時代の持久走大会を思い出すと、脇腹が痛くなったり、足が痛くなったり、途中でレースをやめたいと思うことは何度もありました。
なぜレースに喩えて教えるのか。それは、信仰生活には戦いが伴うということではないでしょうか。苦しい時があり、立ち止まりたくなる時もあるものです。
マラソンは孤独なレースかもしれませんが、信仰のレースはそうではありません。私たちは「キリスト・イエスに捕らえられているからです」。パウロは、自分が迫害していたキリストが、実は逆に自分を捕らえていてくださったことに気づいたのです。牢獄の中にいる今も、キリストがしっかりと自分を捕らえ、引っ張ってくださる。その確かな守りの中で、パウロは最後まで走り抜こうとしています。
きょうの道のりを進みましょう。わたしが捕らえようとするより先にキリストが私を捕らえていてくださいます。