幸せの板挟み | フィリピの信徒への手紙 1章12-30節

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フィリピの信徒への手紙 1章12-30節

この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 フィリピの信徒への手紙 1章23節-24節

幸せの板挟み

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。これは、牢獄に入れられ、何らかの判決が下されるのを待っているパウロの告白です。

自分がもし釈放されて、さらに生きることが許されるならば、わたしにとって生きるとはキリストである。主に仕え、実り多い働きができるだろう。それも幸いなこと。

しかし、もし死刑の判決が出て、牢獄から出ることなくこの世を去るとしても、それはただちにキリストと今より密に結ばれることになるのだから、それもまた幸い。

パウロは、牢獄にいながら、自分は幸せの板挟み状態であると言っているのです。判決がどう下ろうとも、キリストと共に歩む幸いが用意されている。

「進むも地獄、退くも地獄」という言葉があります。どう生きても厳しい現実が待っている。そのような不安の板挟み状態を生きている人も少なくないでしょう。しかし、キリストに結ばれているならば、私たちも幸せの板挟み状態を生きているのです。生きるにしても死ぬにしても、キリストが共におられます。

小橋口 貴人(那加教会)