詩編 42編
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 42編12節
嘆きの底に与えられる希望
草野 誠(湖北台教会)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 42編12節
草野 誠(湖北台教会)
2019年1月の聖書日課をまとめて表示します。
「詩編」の聖書日課をまとめて表示します。
草野 誠が担当した聖書日課をまとめて表示します。
きょうの詩編は、魂の慟哭が聞こえてくるような嘆きの詩です。詩人はエルサレム神殿で奉仕する者の1人でした。しかし、何らかの理由で、「ヘルモン」(7節)というイスラエル北の果てまで連れてこられ、囚われの身になりました。その姿はかつての神殿奉仕者の輝きや誇りはなく、嘆きと嘲りにまみれています。人びとからは、その罪ゆえに神に見捨てられた者として扱われ、肉体的にも精神的にも傷ついた日々を送っています。彼自身がこれは神の怒りであると知り、神の恵みも見えなくなりそうでした。
しかし、その嘆きの只中で彼は「枯れた谷に鹿が水を求めるように」神を渇望します(2節)。確かに今の状況は神の裁きであり、激流のように彼を襲いかねない(8節)。しかし、神は彼の救いの岩として共におられ、たとえ彼の内に希望がなくとも、彼の希望はいつも神にあって失われない。その信仰が、彼の魂に呼びかけます。何を沈んでいるのだ、何をぶつぶつ言っているのだ。神があなたを救ってくださるではないか、と。
「御顔こそ、わたしの救い、わたしの神よ」。この告白がきょうも私を支えています。