信仰による義 | ガラテヤの信徒への手紙 5章

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ガラテヤの信徒への手紙 5章

律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ガラテヤの信徒への手紙 5章4節

信仰による義

人は、「行い」によって「正しい者」とされ、救われるのか。これは、聖書の中心的テーマの一つです。ある人たちは、人は行いによって、自らの力によって、義と認められ、救われると考えます。しかし、聖書は一貫して人は行いによっては救われないと語ります。

かつてアブラハムが義と認められ、救われたのも、その行いによるものではありませんでした(創15)。何より、力によっては、実に無力でした。アブラハムの高齢の妻サラの胎は、その力を完全に失っていました。しかし、この二人に、星のように子どもを与えてくださると約束してくださった神は、サラの胎を開き、御国の繁栄と、継承の約束であるイサクを与えてくださいました。アブラハムは、自らの力によらず、神の「約束」を信じる「信仰」によって御国を受け継がれたのです。

今日の私たちが救われるのも、自らの力によるのではありません。十字架の死に至るまで、完全に神の義を全うしてくださったキリストを信じる、信仰によります。このキリストの「身代わりの義」を信じる者は、どんなに力ない者でも救われ、御国を受け継ぐことができるのです。

山村 貴司(青葉台キリスト教会)