詩編 131編
主よ、わたしの心は驕っていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大き過ぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 131編1節
主を待ち望むということは
赤石 純也(伊丹教会)
主よ、わたしの心は驕っていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大き過ぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 131編1節
赤石 純也(伊丹教会)
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この詩編の結びは「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」です。
それでは、「主を待ち望む」という私たちの姿勢の中身はどうなっているのでしょうか。それが、最初に言われている「わたしの心は驕ってい」ないということです。そしてそれをダビデは、「高くを見ていません。大き過ぎることを…追い求めません」と言い換えます。
ダビデには、神殿を建てるという高く大きな夢がありました。神がそれをお許しにならなかったときのダビデの心境を聖書は語っていませんが、あの体験を経たあとのダビデその人の歌がこれだと考えられます。ライフワークといってもよいものが成らなかったとき、ダビデは「わたしは魂を沈黙させます」と言いました(2節)。今まで「大き過ぎること」を見ていた自分を、今、沈黙させ、「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と言いながら、自分の今までの願いを無にするようにして「主を待ち望む」という姿勢を獲得しました。
神はこのようなダビデの「待ち望み」に確かに答えられ、ダビデの子、イエス・キリストを送られたのです。