礼拝-神の顧み | イザヤ書 66章

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イザヤ書 66章

天はわたしの王座、地はわが足台。
あなたたちはどこに
わたしのために神殿を建てうるか。

わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 イザヤ書 66章1節~2節

礼拝-神の顧み

長く重厚な書物が、ここで閉じられます。けれどもここで語られた神の言葉は、決して閉じられることがありません。人間と世界、とりわけイスラエルと教会に語りかけ続けます。イザヤ書を通して語られる神の言葉は、甘い言葉、人にへつらう言葉ではありません。神の言葉は、人間の罪を直視し、罪ゆえの悲惨から目を逸らしません。

イザヤ書が最後に問いかけるのは、礼拝という主題です。どのような礼拝を神は喜ばれるか。新天新地を待ち望む教会と世界は、礼拝の恵み、礼拝の改革という主題を曖昧にしないよう、最大の注意を払うべきです。「あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか」。これは神殿礼拝の否定ではありません。しかし、神殿礼拝が形式に流れ、偶像礼拝の罪に陥る現実に、預言者は終わりまで敏感です。

神が喜ぶ礼拝者は、「苦しむ人、霊の砕かれた人」です。信仰ゆえの苦しみを恐れず、謙遜な祈りで主に近づく人です。御言葉におののく人を、神は顧みられます。神の顧みは神の牧会です。神の顧みこそ、来る年の教会と世界の希望、信じる者の慰めです。

小野 静雄(瑞浪伝道所・春日井教会)