山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:信じたのに苦しくなるとき(出エジプト記5:1-23)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
一生懸命に取り組んだのに、かえって事態が悪くなってしまった。よかれと思って行動したのに、周りから責められてしまった。そんな経験はないでしょうか。
信仰についても、同じようなことが起こります。神を信じて祈った。それなのに、問題が解決するどころか、かえって状況が悪化してしまう。「私の信仰が足りないのだろうか」と、自分を責めてしまうこともあるかもしれません。
きょう開く出エジプト記5章には、まさにそのような出来事が記されています。
それでは早速、本日の聖書箇所をお読みしましょう。きょうは出エジプト記5章全体を扱いますが、時間の都合上、5章1節から9節までを新共同訳聖書でお読みします。
その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。二人は言った。「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう。」エジプト王は彼らに命じた。「モーセとアロン、お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分の労働に戻るがよい。」ファラオは更に、言った。「この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか。」ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。「これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう。」
イスラエルの人々は当時、エジプトで奴隷として厳しい労働を強いられていました。神は彼らの叫びを聞き、モーセを遣わして、彼らを導き出そうとされます。モーセは神の約束を信じて、エジプトの王ファラオのもとへ向かいました。
そして、神の言葉を伝えます。「わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と。
ところが、ファラオは聞く耳を持ちません。「主とは一体何者なのか」と言い放ち、イスラエルの人々を解放するどころか、労働をさらに厳しくしました。
それまでは、レンガを作るための「わら」が支給されていました。これからは自分たちで集めなければならなくなりました。それなのに、作るレンガのノルマは今までと同じです。当然、達成できなければ人々は打たれてしまいます。
神に従って行動した結果、民の苦しみは以前よりも大きくなってしまいました。
私たちも、正直に行動したのに損をしたり、親切にしたのに誤解されたりすることがあります。祈りながら一歩を踏み出したのに、困難が増えてしまうこともあるでしょう。
そんなとき、「何か間違ったことをしたのだろうか」と考えてしまいます。もちろん振返りは大切です。しかし、「苦しいことが起きたからといって、神が共におられない」と決めつけることはできません。
さて、追い詰められたイスラエルの人々はどうしたでしょうか。
下役たちはファラオに訴えますが、追い払われてしまいます。すると彼らは、モーセとアロンのもとへ行き、「あなたたちのせいで、私たちはますますひどい目に遭うようになった」と激しく責め立てました。
希望を聞かされたはずなのに、現実には苦しみが増している。イスラエルの人々にとってモーセの働きは、自分たちを追い詰めるものにしか見えませんでした。
そして、板挟みになったモーセ自身も、神に深く訴えます。
「わが主よ、なぜこの民にこのような災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
モーセは神に選ばれた指導者です。約束を信じて行動しました。それなのに、目の前の現実は約束とは真逆のように見えます。モーセにも、神が何をなさろうとしているのか分からなくなってしまいます。
聖書は、このモーセの葛藤や不満の訴えを隠さずに記録しています。信仰の人だからといって、いつも迷いがなく、どんなときも平然としていられるわけではありません。
私たちもまた、「神様、どうしてですか」と叫びたくなることがあります。大切な人の病気が良くならない。家族の問題が解決しない。祈り続けているのに、苦しい状況が続く。そんなとき、神の約束がとても遠く感じられます。
けれども、「なぜですか」と神に問いかけることは、信仰が未熟で弱いからではありません。モーセは、わからないからといって神から逃げ出したのではありません。神のもとへ帰って真正面から訴えました。疑問も、失望も、怒りすらも、そのまま神に差し出しました。
私たちにも言葉にならない日があるでしょう。「神様、もう耐えられません」「なぜ助けてくださらないのですか」。その叫びそのものが、神に向かう祈りです。
もう一つ、覚えたいことがあります。この出エジプト記5章では、何の解決もみないまま終わります。民は苦しいままです。モーセもまだ神からの答えを得ていません。
しかし、物語はここで終わりではありません。続く6章で、神はモーセに再び語りかけ、ご自分の確かな約束を思い起こさせます。今は見えない道が、その先へと確かに続いていました。
私たちにとっても、すぐに答えが見えない時期があります。祈っても状況が変わらず、神が何をされているのか見えないとき、今目に見えている現実だけで「神の愛」を判断してはなりません。
そして何より、私たちが持つ希望は単なる「いつか状況が良くなるだろう」という楽観論ではありません。神の御子イエス・キリストは、私たちの苦しみを遠くから眺めるのではなく、この世界に来られ、最も深い苦しみである十字架を引き受けてくださいました。
十字架は、神が苦しむ私たちを絶対に見捨てておられないことの証しです。そしてキリストの復活は、目前の苦しみや死が「最後の結末ではない」という約束です。
信じたのに苦しくなるとき、答えがすぐに見つからなくても構いません。苦しい思いを抱えたまま、「神様、助けてください」とその胸の内を話してみてください。
答えが見えない暗闇の中でも、私たちは祈ることができます。その祈りの中で、私たちの苦しみを誰よりも知っておられる十字架のキリストに、希望を見いだして進みましょう。



