山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:できない理由ばかり並べる私たち(出エジプト記4:1-17)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
何か新しいことを頼まれたとき、どんなことを考えるでしょうか。
「私には経験がありません」
「そんな時間はありません」
「人前で話すのは苦手です」
「もっとふさわしい人がいるでしょう」
私たちは、「できない理由」を見つけるのが、案外上手です。
もちろん、本当に難しいこともあります。自分の力の限界を知ることも大切です。
しかし、「できない理由」を一つ、また一つと並べているうちに、それが本当に「できない」のか、それとも「怖いからやりたくない」のか、分からなくなることがあります。
今日の聖書に登場するモーセも、まさにそんな状態でした。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記4章1節~17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。
「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
モーセは、神から大きな使命を与えられていました。
エジプトで苦しんでいるイスラエルの民のところへ行き、ファラオに民を去らせるよう求め、民をエジプトから導き出すという使命です。
けれどもモーセは、自分にはそんなことはできないと思っていました。
そこで、神にいろいろな理由を並べ始めます。
最初の理由は、「イスラエルの人々が自分を信用してくれない」というものでした。
そう言うモーセに、神は尋ねます。
「あなたが手に持っているものは何か。」
モーセが答えたのは、「杖です」という、とても普通の答えでした。
神は、その杖を地面に投げるよう命じます。すると杖は蛇になり、モーセが尾をつかむと、再び杖に戻りました。
さらに神は、モーセの手に起こるしるしを示し、最後にはナイル川の水が血に変わるしるしについても語られます。
神は、モーセの不安を「そんなことを心配するな」と簡単に片づけたのではありません。
モーセが人々の前に立つとき、神ご自身が働いてくださることを示されたのです。
ところが、モーセはまだ納得しません。
今度は別の理由を持ち出します。
「私は話すのが苦手です。」
10節でモーセはこう言います。
「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。」
これは、私たちにもよく分かる言葉ではないでしょうか。
「自分には才能がない」
「人前で話すのは苦手だ」
「自分には無理だ」
そんな思いです。
ところが神は、モーセにこう答えます。
「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」
そして、こう言われます。
「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
ここが、この箇所の大切なところです。
神は、「モーセ、あなたは話すのが上手だから大丈夫だ」と言ったのではありません。
モーセの弱さそのものを知った上で、
「わたしがあなたと共にいる」
と言われたのです。
ところがモーセは、それでも引き下がりません。
13節で、ついにこう言います。
「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
ここまで来ると、モーセは「できない理由」を探しているというより、「私ではなく、誰か別の人を」と願っているように見えます。
神はついに怒りを発せられます。
しかし、それでもモーセを見捨てません。
モーセの兄アロンを助け手として与えます。
「彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」
こうして神は、モーセの弱さを知った上で、必要な助けを備えられました。
そして最後に、
「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
と命じられます。
ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
この箇所は、「自信を持てば何でもできる」と教えているのではありません。
むしろ、反対です。
「自分にはできない」と知っているモーセに、神が「それでも行きなさい」とおっしゃいます。
私たちも、何かを始めようとするとき、自分の弱さを考えます。
「私には経験がない」
「能力がない」
「失敗するかもしれない」
「もっとふさわしい人がいる」
もちろん、自分の弱さを認めることは悪いことではありません。
しかし、その弱さを理由にして、神が働かれる可能性まで閉ざしてしまってはいけません。
モーセに必要だったのは、「自分ならできる」という自信ではありませんでした。
必要だったのは、「神が共にいてくださる」という信頼でした。
モーセの手にあったのは、一本の杖でした。
それは特別なものではありませんでした。
けれども、神の手に委ねられたとき、その杖は神の働きのために用いられました。
私たちの手にも、「こんなものしかない」と思えるものがあるかもしれません。
小さな経験。
わずかな時間。
限られた能力。
でも、神は私たちが持っているものを用いることがおできになります。
そして、必要ならアロンのような助け手も備えてくださいます。
ですから、「私にはできません」と言うことから、もう一歩進んでみましょう。
「主よ、私にはできません。でも、あなたが共にいてくださるなら、私を用いてください。」
そう祈ることができるのではないでしょうか。
私たちは、「私にできるだろうか」と考えます。
しかし、信仰が私たちに問いかけるのは、
「あなた一人でできのか」ではなく、
「神と一緒に歩むことができのるか」
ということなのかもしれません。
今日、もし何かについて「私には無理だ」と思っているなら、そのことを神にそのまま申し上げてみましょう。
そして、モーセと共におられた神が、私たちとも共にいてくださることを信じて、一歩を踏み出してみたいと思います。



