聖書を開こう

神はなお用いようとされる(出エジプト記4:18-31)

放送日
2026年10月15日(木)
お話し
山下正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:神はなお用いようとされる(出エジプト記4:18-31)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何かに失敗したあと、もう一度そのことに取り組むよう求められたら、どう感じるでしょうか。

「今度こそ、うまくできるだろうか」。
「また失敗したら、どうしよう」。
そんな不安が心に浮かぶかもしれません。

 自分の力に自信が持てないとき、私たちは新しい一歩を踏み出すことをためらいます。
 今日の聖書に登場するモーセも、そんな過去を抱えた人でした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記4章18節~31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」
 主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」
 モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。
 主はモーセに言われた。
 「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」
 途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。
 主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。

 かつてモーセは、エジプトで同胞のイスラエル人を助けようとしてエジプト人を殺し、命をねらわれる身となりました。そして、エジプトを離れ、ミディアンの地で暮らしていました。そのモーセに、神は新しい使命を与えられます。

 モーセは、すぐにその使命を引き受けたわけではありません。できれば他の人を遣わしてほしいとさえ願いました。

 それでも神は、モーセをお遣わしになることをあきらめませんでした。

 今日の箇所は、そのモーセが、いよいよエジプトへ向かうところから始まります。

 かつて逃げるようにして去った場所へ、今度は神に遣わされて帰って行きます。

 何かが変わったのでしょうか。

 モーセの性格が急に変わったわけではありません。自分の弱さがなくなったわけでもありません。

 ただ一つ、確かなことがありました。

 神がモーセを選び、モーセを遣わしておられるということです。

 モーセは、その神の言葉を信じて、歩き始めました。

 ここに、私たちが受け取りたい大切なことがあります。

 神は、何もかもできる人だけを選んで、ご自分の働きを任せるのではありません。むしろ自分の弱さを知り、ためらいを抱えた人を、神は用いようとされます。

 もちろん、神に用いられるなら、すべてが順調に進むというわけではありません。

 神はモーセに、ファラオがすぐにはイスラエルの民を解放しないことを告げられました。

 神に従っているのに、物事が思うように進まない。祈っているのに、状況が変わらない。誠実に取り組んでいるのに、困難が次々と起こる。

 私たちにも、そんな経験があるのではないでしょうか。

 そのとき、私たちは、自分の歩みが間違っているのではないかと不安になります。自分にはやはり無理だったのだと、あきらめたくなることもあります。

 しかし、困難があるということだけで、神が共におられないと決めつけることはできません。

 神がモーセに約束されたのは、困難のない道ではありませんでした。神ご自身がモーセを遣わし、救いの御業を共に進めていかれるということでした。

 ところが、今日の箇所には、さらに驚くような出来事が記されています。

 旅の途中で、主がモーセと出会い、彼を殺そうとされたのです。

 これは、聖書の中でも理解することが難しい箇所です。直後にツィポラが息子に割礼を施すと、主はモーセを放されます。このことから、神との契約のしるしである割礼をめぐって、何か重大な問題があったと考えられます。

 ここで注目したいのは、神に遣わされたモーセであっても、神の前に問われることがあったという点です。

 モーセは、神に選ばれたからといって、何をしてもよいというわけではありません。神の働きを担う者自身も、神の言葉に従わなければなりません。

 それは私たちも同じです。

 長年聖書を読んできた人も、神の言葉によって自分の歩みを正される必要があります。

 そして、神はモーセを一人きりで働かせようとはされませんでした。

 神がアロンをモーセのもとへ遣わされたことが記されています。二人は再会し、共にイスラエルの民の長老たちのもとへ出かけて行きました。

 アロンは神の言葉を伝え、しるしを行いました。すると民は信じ、ひれ伏して礼拝します。

 なぜ民は神を礼拝したのでしょうか。

31節には、主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみをご覧になったということを聞いたからだ、と記されています。

 ここに、この物語の大きな喜びがあります。

 神は、苦しんでいる人々を忘れてはおられませんでした。神がモーセを用いようとされたのは、モーセ自身の成功のためではありません。苦しんでいる人々を救うためでした。

 私たちが覚えていたいのは、神は、私たちが完全な人間になるまで待っておられるわけではない、ということです。

 モーセには過去の失敗がありました。自信のなさもありました。神の前に正されなければならないこともありました。それでも神はモーセを見捨てず、助け手を与え、ご自分の民を救うために用いられました。

 そして、時代が下って、神が人を救おうとされるその御心は、イエス・キリストを通して、さらに明らかにされました。

 神の御子イエスは、弱さを抱え、罪に苦しむ私たちを救うために、この世に来てくださいました。そして、十字架の上で、ご自分の命をささげてくださいました。

 私たちが立派な人間になったから、神に愛されたのではありません。神が先に私たちを愛し、キリストによって救いの道を開いてくださいました。

 だからこそ、私たちは自分の弱さだけを見つめて、希望を失う必要はありません。自分の力では乗り越えられないことがあっても、過去の失敗を抱えていても、神の恵みに生きることができます。

 そして、神に愛され、救われた私たちは、今度は誰かに神の愛を届ける者として、用いていただくことができます。

 小さな働きであっても、神はそれを用いてくださいます。

 神は、苦しむ人を忘れてはおられません。そして、その人を支えるために、私たちをも用いようとしておられます。

 私たちの希望は、自分がどれほど立派な人間であるかにかかっているのではありません。私たちを愛し、キリストによって救ってくださった神にかかっています。

 その神を信頼して、今日、できる一歩を踏み出しましょう。

 神は、なお私たちを用いようとしておられます。

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