山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:拒まれても、なお注がれる愛(マタイによる福音書23:37-39)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
誰かを心から大切に思い、真剣に手を差し伸べたのに、その思いを受け取ってもらえなかった経験はないでしょうか。励まそうとしたのに距離を置かれてしまったり、精一杯の善意を込めて差し出した手を、冷たく振り払われてしまったり、愛が拒まれるとき、私たちの心は深く傷つきます
きょう取り上げようとしている聖書の個所には、拒まれてもなお愛し続けるお方の姿が描かれています。しかもそれは、静かに語りかけるで姿はありません。激しい告発の直後に語られた、主イエスの深い嘆きの言葉です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書23章37節~39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
マタイによる福音書23章は、聖書の中でも非常に厳しいトーンで知られる箇所です。イエス・キリストは、当時の宗教指導者である律法学者やファリサイ派の人々に対し、「偽善者たちよ」という激しい言葉を繰り返しながら、七つの災いを宣告されました。彼らが形だけの信仰に走り、困窮している人々を助けず、神の御旨をねじ曲げていることを真っ向から批判した言葉です。
これを読む私たちは、イエスの厳しい言葉に圧倒されるかもしれません。しかし、その激しい嵐のような告発の最後に、突然、まったく調子の変わる言葉が現れます。それが先ほどお読みした37節の言葉です。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」
これは怒りの言葉ではありません。嘆きの言葉です。ここに、イエスのほんとうの思いが表れています。
エルサレムという町は、ユダヤの民にとって特別な場所でした。神殿のある都。神がご自分の名を置かれた町。そして何より、神が何度も何度も預言者たちを遣わして、「わたしのもとに帰りなさい」と語りかけ続けてこられた町です。
しかし同時に、エルサレムはもう一つの歴史を持っています。神から遣わされた預言者たちが、繰り返し拒まれ、迫害され、命を落とした歴史です。エルサレムは、神に最も愛されながら、最も神を拒み続けた場所でもありました。
イエスが「エルサレム、エルサレム」と名前を二度繰り返されるとき、その言葉には長い歴史の重みが込められています。一度や二度ではない、何世紀にもわたる、繰り返しの拒絶です。イエスは今、その数千年にわたる拒絶の歴史のすべてを、ご自分の肩に背負って嘆いておられます。
聖書では、名前を繰り返すのは、深い親しみと、それ以上に深い悲しみを表す表現です。これは断罪の宣告ではなく、愛する子を失おうとしている親の叫びです。直前まで「偽善者」と激しく叱責していた方の口から、今は震えるような悲しみの思いが溢れ出しています。
神の忍耐は、私たちの想像をはるかに超えています。神は、一人が拒まれてもまた次の一人を遣わし、愛を伝えようとし続けました。人々が耳を塞げば塞ぐほど、神はより強く語りかけられました。この言葉は、人類の罪深さと同時に、神の忍耐の長さを物語っています。そして、最後にお遣わしになったのは、ご自分の愛する独り子イエス・キリストでした。
この箇所で特に心に留まるのは、イエスが使われたたとえです。
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」
律法学者たちへの告発が続く文脈の中で、イエスがご自分の思いを語るのに選ばれた言葉が、母鳥の姿だというのは、驚くほどやわらかな言葉です。力強い王の姿ではなく、ひなを守ろうとするめん鳥の姿。外敵から覆い隠し、自分の身を盾にして守る姿です。神の愛は抽象的な理念ではありません。危険から守ろうとする具体的な愛です。
実はこの「翼の陰」という表現は、詩編に繰り返し出てきます。「あなたの翼の陰に隠してください。」(詩編17:8)「あなたの翼の陰を避けどころとします」(詩編57:2)。イエスはその伝統的な言葉を使いながら、「わたしはそのように、あなたたちを守りたい」と願っておられます。
しかし続く言葉は痛切です。
「だが、お前たちは応じようとしなかった。」
ここに悲劇があります。神は強制されません。翼は広げられていますが、無理やり抱え込むことはなさいません。救いは招きであって、支配ではありません。人は応じないという選択をすることもできます。これは神の力に限界があるからではありませ。神が人格を持つ存在として人を扱われておられるからです。
神の守りの翼を拒絶し続けた結果、何が起こるのでしょうか。それは、神による罰というよりも、自分から神を追い出した後に残る「虚しさ」です。紀元70年、実際にエルサレム神殿は崩壊し、跡形もなくなりました。神の臨在を拒むとき、そこは「空っぽの家」になってしまいます。
しかし、イエスは絶望で話を終えません。最後に引用されたのは詩編118編の言葉です。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
これは、いつか再び、喜びをもって主を迎える日が来ることを指し示しています。完全な拒絶の先にも、なお将来への希望の扉がわずかに開かれている。これが、聖書が語る福音の深みです。神は、怒りで幕を閉じようとはされません。裁きの言葉の中にも、なお開かれた扉を残しておられます。
さて、この箇所は私たちに問いかけています。私たちは神の招きに 応じているでしょうか。日々の忙しさや自分自身のプライドの影に隠れて、神の招きを後回しにしていないでしょうか。
しかし、それでも主は今も翼を広げておられます。礼拝に集うとき、聖書を読むとき、心の奥に静かに響く良心の声。そのすべてが、主の呼びかけかもしれません。
そしてもう一つ。この主の姿は、私たちの生き方にも光を当てます。愛しても拒まれることがあります。誠実に関わっても誤解されることがあります。そんなとき私たちは、すぐに心を閉ざしてしまいがちです。しかし主は、拒まれてもなお愛し続けられました。その愛はついに十字架へと向かいます。
そして、その拒絶されたはずの場所から「復活」という新しい命が始まりました。私たちの人生において、何かに拒まれ、見捨てられたと感じる瞬間があったとしても、それが人生の最後ではありません。愛は決して無駄に終わることがありません。
拒まれても、なお注がれる愛。その愛の前に、心を開いていきたいと願います。









