8月8日(金) エゼキエル23章
「お前はわたしを忘れ、わたしを後ろに投げ捨てたのだから、不貞と淫行の責めを自分で負わねばならぬ。」)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』エゼキエル書23章35節
23章では、サマリアとエルサレムが二人の姉妹「オホラとオホリバ」にたとえられています。二人は主なる神のものとされ、祝福を与えられていました(4節)。しかし、オホラすなわちサマリアは、神が共にある幸いを知りながら異国のものに心を惹かれ、霊的な不貞により、裁きを受けます(5〜10節)。オホリバすなわちエルサレムは、サマリアの愚かさを見ながらも立ち帰らず、さらにひどかったと指摘されます。彼女は神の民であることを忘れ、その喜びを捨て去りました(11〜21節)。主なる神は、彼女を憎む者の手に彼女を渡すとおっしゃいます(28節)。
霊的に満たされないとき、私たちの心は渇き、心を潤すものを求めます。私たちの心を惹きつけ、離さないものが、私たちのまわりにあふれています。お金や名声、権力。それらは私たちの心を惹きつける「心の偶像」になります。これらは神を愛する喜びを見えなくし、偽りの潤いで私たちの心を占領します。しかし、そのような偶像が本当に心を潤すことはありません。そして、神は生きておられ、私たちの心を見ておられます。
真の意味で私たちの心を満たすのは、主の御言葉であり、心からの礼拝です。きょうも主は、ご自身の御言葉をもって私たちの心を満たし、私たちを生かしてくださいます。
【祈り】
主よ、心の偶像を取り去り、私たちを心からの礼拝へと導いてください。