聖書を開こう

互いに心を開いて(2コリント7:2-4)

放送日
2017年5月25日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  互いに心を開いて(2コリント7:2-4)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 とても残念なことですが、教会の中でも、クリスチャン同士の仲たがいが起こってしまうことがあります。そして、それは、この世の人間同士の仲たがいよりも深刻になってしまうケースがあります。

 おそらく、それはクリスチャンである相手に対する期待が大きすぎるからでしょう。理想的なクリスチャンの姿を相手に期待すればするほど、仲たがいが起こってしまったときには修復するのが難しくなってしまうような気がします。クリスチャンであるなら、当然こうあるべきだという期待を、相手にだけ求めてしまうなら、仲たがいの溝はますます広がってしまうことでしょう。

 どんな人間同士の仲たがいもそうですが、壊れた関係を修復することは、相当な努力を互いに必要とします。今学んでいるコリントの信徒へ宛てた手紙の中で、パウロは最大限にその努力をしています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 7章2節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。

 きょうの個所は、前回取り上げた個所からの続きです。前回取り上げた6章11節と13節でパウロはこう述べました。

 「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」「子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」

 同じ主題が再び、きょうの個所の冒頭で繰り返されています。

 「わたしたちに心を開いてください」(2コリント7:2)

 もちろん、パウロはコリントの教会の信徒たちに一方的に心を開いてほしいと願っているのではありません。6章11節で述べられているとおり、まず、パウロが心を開き、率直に語ったということが前提です。壊れた関係の修復で大切なことは、歩み寄るという姿勢です。そして、この歩み寄る姿勢にとって大切なことは、どうしたいか、どうありたいか、という明確な着地点を持っているということです。もし、このことがはっきりしていなければ、話が蒸し返されたり、ぶれたりしてしまいます。

 パウロにとって、コリントの信徒たちに愛想をつかせてしまう、という選択肢もあったかもしれません。しかし、パウロにはいくつかある選択肢のあいだを行ったり来たりという態度は少しも見られません。パウロにとって、最終的に行きつきたいと思っている地点は、一つだけです。それは両者がわだかまりを捨てて、再びキリストにあって一致した思いで歩みたいということです。

 パウロのなすあらゆる努力は、キリストにあって一つとなることへと向けられています。

 もちろん、前回の学びでも触れましたが、一致のために歩み寄るということは、妥協するということでは決してありません。歩み寄って心を開き、誤解や偏見を捨てて、真実を見ようとすることです。パウロはコリントの教会の信徒たちにまず心を開きました。そもそも、心を開いていなければ、こんなにややこしくなった関係を修復するために、手紙を書いたりはしなかったでしょう。

 その上で、今度はコリントの教会の信徒たちに、心を開いて、偏見なく自分を見てほしいと願っています。

 いったい、どんな誤解があったのでしょうか。パウロは弁明してこう述べます。

 「わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。」

 してもいないことをしたと思われることほど、つらくて残念なことはありません。そして、していないことを本人が立証しなければならないことほど、悲しいことはありません。パウロにはただそのような誤解を否定するよりほかはありません。

 いったいどんないきさつで、パウロが不義を行ったと誤解され、誰かを破滅させたり、誰かからだまし取ったということにされてしまったのでしょうか。おそらくパウロにさえ、思い当たる節もなかったことでしょう。

 もっと後になりますが、12章16節にパウロはこう書いています。

 「わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。」

 こんな理不尽な言いがかりはありません。コリントの教会を気遣って、負担をかけないように努力してきたことが、まったく評価されないどころが、それでも、悪賢くて、だまし取っていると陰口をたたかれているのですから、パウロにはたまったものではありません。

 しかし、パウロは決してそのことを根にもって、ここぞとばかりに不満を言っているわけではありません。ただ、信じてもらうよりほかはないので、「わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした」としか弁明のしようがありません。

 そして、誤解が誤解を生まないように、自分の弁明の言葉に、相手への非難の気持ちがないことを率直に述べています。

 「あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません」

 これはパウロの真実な気持ちです。パウロはコリントの信徒へ宛てた第一の手紙の中で、「愛がなければ、無に等しい」「愛がなければ、わたしに何の益もない」(1コリント13:2-3)と述べましたが、もし、パウロの動機が相手への非難であるとするなら、それが、どれほど無益なことであるかは、パウロ自身がよく知っていることでした。コリントの教会の人たちが、どう思うかは別として、パウロ自身は、コリントの教会の信徒たちと生死を共にしているとさえ思い、厚い信頼を寄せています。コリントの教会に対する愛だけが、パウロを突き動かしているのです。

 どんなところでもそうかもしれませんが、とりわけ教会の中では、愛がその中心にあるときに、ほんとうの意味での関係の修復が生まれるのです。

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