山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:その日は、突然やってくる(マタイによる福音書24:36-44)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人生には、「まさか今」「まさかこんな時に」と思うようなことが訪れるときがあります。大きな地震、突然の事故、あるいは昨日まで当たり前にあったものが、今日には失われているような経験です。
私たちは普段、「明日も同じように続く」と思って生活しています。しかし現実には、人生は必ずしもその思い通りにはなりません。むしろ、「突然やってくる出来事」によって、私たちの人生は大きく方向を変えられることがあります。
イエス・キリストは、まさにそのような「突然やってくる時」について語られました。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書24章36節~44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
マタイによる福音書24章には世の終わりについてのイエス・キリストの一連の教えが記されています。そのきっかけはエルサレムの神殿の崩壊を予告したイエス・キリストの言葉に対する弟子たちの質問でした。
「そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」(マタイ24:3)
弟子たちは、「終わりの時には何かはっきりしたしるしがあって、それを見れば分かるはずだ」と考えていました。しかしイエスは、その期待をある意味で覆されます。
36節でこう言われます。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」
私たちは「いつか」を知りたがります。「いつ来るのか分かれば準備できる」。あるいは逆に「いつ来るかがわかれば、その日が来るまでは慌てて準備する必要がない」と考えるからです。しかし主は、その「いつ」をあえて私たちに知らせてはおられません。人間はおろか、御使いたちも、さらには御子であるご自身ですら知らない。それはただ、父なる神の主権の中に隠されているとおっしゃいました。
なぜでしょうか。それは、私たちが「いつか」を正確に知ることによって安心を得るのではなく、その時を握っておられる「神への信頼」によって今を生きるためです。未来のスケジュールを知ることよりも、今日、神との関係の中に留まることこそが大切なのです。
続いてイエスは、ノアの時代を例に挙げられます。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」と言われます。ノアの時代、人々は何をしていたでしょうか。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」とあります。
ここで挙げられている行動は、どれも特別に悪いことではありません。食べること、飲むこと、結婚すること、どれも本来は良いものです。しかし問題は、それらの日常に没頭するあまり、神の警告にまったく気づかなかったという点にあります。
ノアは神の言葉に従って箱舟を造り続けていました。それは周囲の人々にとっては、明らかな「しるし」だったはずです。しかし人々はそれを真剣に受け止めませんでした。そして「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」と言われています。
ここに、私たちへの重要な警告があります。それは、「人は日常に埋もれてしまうと、神のことに気づかなくなる」ということです。忙しさ、習慣、当たり前の生活、それ自体は悪いものではありません。しかし、それらが神よりも大きくなってしまうとき、私たちの心は鈍くなり、霊的に眠ってしまいます。
さらにイエスは衝撃的なことをおっしゃいます。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」
この違いは、どこにあるのでしょうか。それは、目に見える行動の違いではありません。内面の備え、つまり「神との関係」の違いです。仕事をしているその最中、家事をしているその瞬間、その心の中に主への信頼と待ち望む信仰があるかどうかです。日常の中で神を忘れて生きているのか、それとも神の前に立って生きているのか、その違いです。その違いが、「その日」に明らかになります。
だからこそイエスは結論としてこうおっしゃいます。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」
「目を覚ましていなさい」という言葉は、単に寝ないでいるという意味ではありません。霊的に目を覚ましていること、つまり神を意識して生きている状態を指しています。神を忘れて惰性で生きるのではなく、「今この瞬間も神の前にある」という意識をもって生きることです。
さらにイエスは、家の主人が盗人の来る時刻を知っていれば、家に押し入らせはしないだろう、というたとえを用いています。盗人は予告なしに来ます。同じように、「人の子は思いがけない時に来るからである」と言われました。
ここまで読んできて気がつくことは、「その日は突然やってくる」ということが繰り返し強調されていることです。
では、この御言葉は、現代を生きる私たちにどのように語りかけているのでしょうか。
朝起きてから夜寝るまで、仕事、家事、子育て、人間関係、あるいはSNSやテレビのニュースに心を奪われ、一日の中で一度も神のことを思い出さない、という日はないでしょうか。
忙しい毎日の中で、神のことが後回しになっていないでしょうか。「落ち着いたら信仰のことも考えよう」と思っていないでしょうか。しかし、その「落ち着いた時」が必ず来るとは限りません。
目を覚まして生きるとは、具体的には今日出会う一人ひとりに、主に対してするように誠実に接しているか、与えられた小さな仕事に、主への感謝を持って取り組んでいるか、過ちを犯したら、すぐに悔い改めて主のもとに立ち返っているか。それが目を覚ましている生き方であり、備えのある生き方です。
「いつ主に会ってもよい」という意識は、私たちの毎日を輝かせます。今日が最後の日かもしれないと思えば、私たちはもっと愛し、もっと許し、もっと感謝することができるはずです。
そして最後に覚えたいのは、この「その日」は、単なる恐れの日ではないということです。確かに、それは裁きの日でもあります。しかし同時に、それは救いが完成する日でもあります。イエス・キリストを信じる者にとって、それは希望の日です。
不安に怯えるのではなく、主への信頼という確かな土台の上に立って、今日という新しい一日を歩み出していきましょう。









