聖書を開こう

イエスとは、結局だれなのか(マタイによる福音書22:41–46)

放送日
2026年1月29日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:イエスとは、結局だれなのか(マタイによる福音書22:41–46)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たちは日常生活の中で、さまざまな問いに答えながら生きています。

 「今日の天気はどうですか」「あなたの仕事は何ですか」といった質問には、すぐに答えられるでしょう。

 しかし、時には答えに窮する問いもあります。

 「あなたにとって幸せとは何ですか」「人生の意味は何だと思いますか」といった問いには、簡単に答えを出せません。

 私たちは、自分の知識や経験の範囲内で「説明できること」を積み重ねて安心を得ようとします。

 イエス・キリストという人物についても同じです。歴史の教科書を見れば「キリスト教の創始者」と書いてあります。道徳的な視点で見れば「愛を説いた偉大な教師」、あるいは「貧しい人々に寄り添った社会改革者」と答える人もいるでしょう。どれも間違いではありません。

 しかし、聖書を読み進めていくと、イエスというお方は私たちのそうした「整理された理解」の枠を、ひょいと飛び越えてしまうことに気づかされます。

 今日取り上げようとしている箇所には、イエス・キリストご自身が一つの問いを投げかける場面が描かれています。その問いは、当時もっとも聖書に精通していた宗教指導者たちを沈黙させました。しかしそれは、相手を論破するための問いではありませんでした。イエスがだれであるか、その本質を浮かび上がらせるための問いでした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書22章41節~46節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

 今お読みした場面は、エルサレムの神殿で繰り広げられた一連の論争の総まとめです。マタイによる福音書22章全体を見ると、ファリサイ派、サドカイ派、律法の専門家たちが次々とイエスのもとにやって来て、難しい質問を投げかけています。彼らの目的は、イエスを試し、言葉尻を捕らえて訴える口実を見つけることでした。しかし、今度はイエスの側から問いを投げかけておられます。

 論争の最後にイエスが声をかけたのは、そこに集まっていた「ファリサイ派」の人々でした。

 彼らは当時、旧約聖書を暗唱するほど熱心に学び、メシア(救い主)がいつ、どこから、どのようしてに現れるかについて、誰よりも詳しい自負を持っていました。民衆からも「聖書の専門家」として尊敬されていた彼らに向かって、イエスは静かに、しかし核心を突く問いを放たれます。

 イエスは彼らにこう尋ねました。

 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」

 ファリサイ派の人々は、待ってましたと言わんばかりに即答しました。

 「ダビデの子です。」

 これは、模範的な回答でした。旧約聖書の預言に基づけば、メシアはかつてのイスラエルの偉大な王、ダビデの家系から生まれることになっていました。彼らにとって、メシアとは「ダビデのような力強い王の再来」であり、ローマの圧政からイスラエルを解放してくれる英雄的な存在、人間的な王を意味していました。

 ところが、イエスはここで彼らの思考を揺さぶります。イエスは旧約聖書の「詩編110編1節」を引用してこう重ねて問われました。

 「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

 イエスの論点は明確です。もしメシアがダビデの子孫、つまりダビデの「子」であるなら、なぜダビデ自身がメシアを「わたしの主」と呼ぶのか。通常、子孫が先祖を「主」と呼ぶことはあっても、先祖が子孫を「主」と呼ぶことはありません。これは矛盾ではないか、とイエスは問うたのです。

 言い換えれば、「メシアは単なるダビデの子孫(人間的な王)ではない。ダビデが跪いて拝むべき、神の権威を持った存在なのだ」ということを、イエスは聖書を根拠に示されたということです。

 ここで問題になっているのは、知識の量ではありません。ファリサイ派の人々は聖書をよく知っていました。しかし、メシアを人間的な王として捉える枠組みを超えることができませんでした。けれども、ダビデ自身は、やがて来るメシアを、自分より上位の存在、「わたしの主」と呼んで、人間の王としての子孫であるだけでは説明がつかない存在として語っているということです。

 ファリサイ派の人々は沈黙しました。誰も反論しようとはしませんでした。そしてそれ以後、誰もイエスに質問しようとしなくなりました。

 それは、イエスが議論に勝ったという記録ではありません。むしろ、聖書を一番よく知っていると自負していた人々が、目の前にいるイエスというお方の「本当の姿」を前にして、自分たちの限られた理解、狭いメシア観が完全に崩れ去ってしまった瞬間です。

 イエスが示そうとしたこと、それは、メシアは確かに「ダビデの子」であるけれども、それ以上の存在だということです。メシアはダビデの子孫として人間の系図に連なる方でありながら、同時にダビデの「主」でもある。つまり、神の権威を帯びた、特別な存在です。

 イエスはマリアから生まれ、ダビデの家系に属する人間でした。しかし同時に、神の子として、神の権威と力を持つお方でもありました。人でありながら神である。この二つの性質が、イエスというお方の中に完全に結びついています。

 ですからイエスは、単なる優れた教師でも、立派な宗教家でも、道徳的な模範でもありません。もちろんイエスはそれらすべてでもありますが、それ以上のお方です。イエスは神ご自身が人となられたお方、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるために来られた救い主です。

 イエスとは、結局だれなのでしょう。この問いは、エルサレムの神殿で問われただけではありません。今も、私たち一人ひとりに向けられています。

 答えをすべて理解してからイエスに従うのではありません。むしろ、イエスの前に立ち、「あなたこそ私の主です」と告白することから、信仰の歩みは始まります。

 ファリサイ派の人々は沈黙しました。しかしその沈黙は、敗北ではなく、新しい理解への入り口となり得たはずです。私たちの「答えられなさ」も、イエスをより深く知る旅の始まりとなります。

 今週、この問いを心に留めてみてください。「イエスとは、私にとってだれなのか」。その問いの前に静まるとき、イエスご自身が、きっとあなたに語りかけてくださいます。

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